9.11のリアル
2019年9月11日
9.11という合い言葉も、だんだん過去になりつつあります。
アメリカ合衆国にしてみれば、真珠湾以来の自国攻撃に遭い、頭に来たことでしょうが、この後の報復もまた執拗なものでした。本土への侵入と破壊がショックであったことは想像できますが、この時代の武器は、ついにゲーム感覚でもあることを、私たちに見せつけることにもなりました。
安易に、戦争のない世界を、とは言えません。しかし、戦争のない世界を、と言わせない圧力には抗したい。ひとは、自分自身の周りとも、戦争をし続けているような者ですから、この世から戦争を無くすことは厳しいと思われます。しかしいつも私が口にするように、「戦争」という同じ言葉を用いても、かつて歴史の中でのそれと、いま私たちに直面しているそれとでは、まるで意味が異なることを弁えなければなりません。世界の破壊と人類の滅亡をもたらしうるレベルになった現代の「戦争」に対しては、かつてのそれとは一線を画すものがあります。しかしまた、私たちと隣人との間の戦争とそれが無関係であるとして肯定したり弁明したりするのも、また何か違うように思うのが正直なところです。
ともあれ、2001年9月11日のショッキングな光景は、決して映画ではありませんでした。私たちは映画というVRにも慣れてしまい、リアルなほうを偽物のように思う錯覚に陥っています。「ぬいぐるみのように可愛い」動物という見方が何か歪んでいるように、「ゲームのように見える戦争」もまた、よくよく考え直さなければならない捉え方であるということです。それでいて、それを「お茶の間で」(?)傍観という立場で目撃するという異常さも、噛みしめておかないと、ますますリアルさを失っていくことになるでしょう。
千葉県では、台風後の停電のために、そしてまたそこを遅う熱波で、たいへんな苦労をしている方がたくさんいらっしゃいます。考えてみれば、その生活こそが人間のリアルであったのかもしれません。電気がなく、暑い夏をどうするか。千葉の方がインタビューで、江戸時代に戻ったようだ、とも口にしていましたが、吉田兼好もまた、夏は耐えられないと漏らしていたように、日本の夏を先人たちは苦しい中で乗り越えてきたのでした。
人間にファンタジーは欠かせないと思いますが、リアルをファンタジーと錯覚してしまう要素には警戒しなければなりません。そしてファンタジーで解決してきたことを、安易にリアルに適用しようとする誘惑からも逃れないといけないでしょう。
18年前の出来事を回想し、犠牲者を悼む思いを懐く中で、リアルへ地盤を踏みしめることを考えてみたいとも思いました。