関東大震災での恐怖はいまも
2019年9月4日
防災の日。1923年のこの日、関東大震災と呼ばれる大地震に関東が見舞われました。96年前、同じ亥の年でした。ジブリの映画『風立ちぬ』で、アニメという表現手段で、残酷になりすぎず、しかしその怖さが子どもたちにも伝えられるように配慮されて表現されていました。この震災を、直に伝えることのできる人は、時代的に殆どいなくなりました。2011年の東日本大震災においても、津波が何万という人の命を奪いましたが、関東大震災は火災を加え、十万を超える人命が失われました。もしかすると、いくらかでも防災対策が成り立っていて、そうでなければ何十万という方が、東北でも亡くなっていたかもしれない、という気がしました。
もちろん、犠牲者の数ばかりで災害について無責任に言い放つということは慎まなければなりませんが、あの関東大震災においては、災害というよりは人災という点で、悲しい出来事が伝えられています。
具体的にどうであったかはもちろん私が知る由もないことですから、いずれも聞いた話ということになりますが、朝鮮人が毒を井戸に播いている、などの流言が飛び交い、自警団だの警察や軍隊だのといった様々な「正義」の人間たちが、朝鮮人を虐殺したというのです。災害の後で治安に不安があったことを考慮に入れても、それをおよそ無根拠な思い込みから直ちに殺害へと走る、「正義」を自称する人間の恐ろしさが歴史的に明らかにされています。
これは社会主義者やキリスト教信者へも同様に手が伸びてリンチするようになったというふうにも言われていますが、その前に災害直後から、朝鮮人と間違われて、聴覚障害者もまた少なからず殺されているという証言があることも、ご存じない方は、どうぞお調べになられ、周知のことと理解してくださればよいが、と思っています。
また、朝鮮人虐殺に関して、当時警視庁に籍を置いていた正力松太郎氏が大きな影響を与えているという話も有名です。読売巨人軍を生み、讀賣新聞や日本テレビをつくった人物ですが、私も無責任にこれ以上は申しません。初耳だという方がいらしたら、どうぞいくらか調べてみてください。
しかし、特定の誰かのせいに、何もかもをするということについては、私はいつも疑念をもつ考え方をしています。先週事件後13年を数えた、飲酒運転による三児死亡事故についても、被害者を攻撃した、一般の人々がたくさんいたことを忘れることができません。それらは「正義」の名のもとに、被害者を裁き言論という形ではありますが、一方的に攻撃したのです。
ありえないような流言にも、非常時の人間は集団的催眠か何か知りませんが、互いの内で「正義」だと思う感情が暴走を始め、自分たちの暴力を「天誅」だなどと称して正当化する、そんな性質が、人間には備わってしまっています。そんなはずがない、自分はそんなことはしない、と自分を信じる人こそ実はそのことに気づかずやっている、というのが実情です。教会で、何かしら一方的に誰かを悪者にして、糾弾したようなことはありませんか。いやその人が悪いのだ、という「正義」を貫いたというのであれば、なおさらそれは恐ろしい「正義」の実行であった可能性が膨らみます。教会に来ている誰かの悪い噂を楽しんだり、ちくちくあてこすりを言ったようなことはありませんか。言われた人がどんな不愉快さや恐怖感を覚えるかに、少しも想像が及んでいなかったということに、いま気づくことはできませんか。あるいはまさにいま、キリスト教世界の誰それを文句なしの悪人だとして非難したりしていませんか。自分は「正義」であり、「正義」を実現しているのだ、ということを前提にしているということにすら気づかないままに。
いや、みんながそうしているから自分もその側に立っているだけだ、自分がしていることは強いことではない、という言い訳をする人もいます。他人がごく一部していることでも、「みんな」がしていることにして、「みんな」がしているからそれは「正義」なのだという、実は根拠のない推論めいた思い込みのもとに、自分でよく考えてするのでなく、「みんな」が「当然」の「正義」なのだからそれに賛意を示すだけだ、というように、自分のしていることが分からないようなあり方をしていないか、よくよく省みなければならない、と私は考えます。
他人がしているから自分もする。このような安易な思いが、集団心理として、全体の動向を決めていきます。歴史の中からもその恐ろしさを学ばなければならないと思いますが、この問題についてはまた別の事例から考えてみたいと思いますので、明後日また改めてお話しすることにします。