国語教育が大きく変化しようとしていることに関心を

2019年8月30日

図書館でざっと読んだだけですが、『文学界』2019年9月号には興味深い特集が組まれていました。【「文学なき国語教育」が危うい!】と題して、おもに高校国語の変化を論じたものでした。文学をタイトルにもつ文藝雑誌としては尤もなことと思われますが、それを抜きにしても、この改革には誰もが関心をもたなければならないと感じます。
 
すでに一年半ほど前に、高等学校学習指導要領の改訂が発表されていますが、その国語で大きく変化が見られることが分かっていました。文学色の全くない科目が登場することになったというわけです。源伍文化や論理国語といった科目の登場で、いわば実用日本語とでも言いますか、説明書や契約書の日本語を正しく読む能力のための世話、ということになります。
 
論点はその雑誌に詳しく書かれてあるし、もちろん他の場所でも盛んに議論されていますので、一素人の私が無知の故に妙に掻き回してはならないとして、とやかくは論じませんが、大学入試制度を考えていくと、文学を受験のために学習しなくても大学に合格できるような動きになっていくことが、大問題だと認識されていることが印象的でした。
 
文学は役に立たない。すでに大学の文学部なるものも、政府のかけ声で消し去られようとしています。文学など研究しても、日本の経済発展や軍事立国には役立たないから、実学でないものは廃れて構わない、というような受け取り方をする人々が、強烈な危機感を覚えて声を挙げている点は、これまでもオピニオンとして聞こえていました。しかし思った以上に事は深刻なようです。
 
文章が適切に読めない若者が増えているから、感情以前にまずは正しく文が読める教育をしなければならない、という発想がそこにあるようです。確かにそれはよく分かります。しかし、ある意味ですべての人に高度な論理読解を求めるのも難しい話で、文字すら読めなかった昔の社会から考えると、殆どすべての人がそれなりに本が読めるという現代社会は大したものだと考える道もあろうかと思います。「高等教育」の名に相応しくないかもしれませんが、もはや高校にかつてのイメージの高等を要求するのでなく、そこでいわば味気ない文章の正確な読み取りなどだけに特化したものを国語だと定めるのが果たして適切なのかどうか、は疑問です。
 
いったい、言語というものは、情報を伝えるだけのものでしょうか。それではますます時代はAIで満足できるような世界に流れていくような気がします。言語には豊かな感情の交わりがあり、思いやりがあり、人格の総合的な交流に基づく、コミュニケーションの場に現れるものです。また、人は言語によってのみ思考します。思考というのは、感情に左右されもし、また相手の感情や互いの置かれた情況をを慮ることを含みます。まるで大本営発表の文章を文字通りに読み取り従え、とでも言うような、かつての情報専制による制圧の時代を目的としているかのような、実際に役立つ言語活動というものにのめりこんだ学習をした、コンピュータプログラムに長けた人間を次々と作り出そうとする動きではないかと勘ぐってはいけないでしょうか。
 
短い場所でこれにまつわるあらゆることを論じることはできません。自ら積極的に考える教育などが盛んに宣伝されていますが、思いなしただけのことを互いにぶつけ合うばかりで、一定の情報操作により提示された文面を画一的に理解することを求められ、それに従うような動きをもっと見張っていなければならないのではないかと思います。
 
私たちに必要なのは、文学抜きの言語活動なのでしょうか。むしろ、文学や感情を含めたうえでの、適切な批判精神の大切さではないでしょうか。この「批判」とは、「非難」のことではありません。本当にそれでよいのかよく考えてみる、追究する姿勢を忘れない、ということです。無批判に大本営発表を受け容れてきたことを思い返すべきは、キリスト教界も全く同様で、一から出直して自己批判し、検討しなければならない課題であると断言します。まさにこの高等学校の国語や大学の学部再編の動きが、ほんとうにそれでよいのかどうか、予算を握られている大学側には逆らえない事情もあるわけなので、市井の人間こそが、真摯に受け止めて考えていかなければならないと、ささやかな警告と提案をしたいと考えています。キリスト者に、見張る者としての役割が与えられていると信じるならば。



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