捨てたものじゃない

2019年8月26日

サルが人里に来るには、少しばかり勇気が必要だった。そのサルが、好奇心からなのか、腹を空かした子のためなのかは知らないが、山の中から、切り拓かれた平野へと向かっていた。普通なら、そんなところに木の実を探しても、まさに実入りのなさそうな場所ではあった。だがそれ以上に、サルの生活環境で、それがいに入らなくなってきていたのだ。
 
サルからすれば、それはリスクを伴うものだった。人間は何やら得体のしれない能力をもっているという噂だった。最悪の場合、激しい音がした瞬間に、仲間が倒れて血を流して戻って来なくなるという事態が起こっていた。それを聞くと、少しばかり恐怖に包まれるのであったが、背に腹は代えられない。正直に腹は減る。
 
見渡すと、緑の木々の間に、鮮やかな朱色のものが見えた。それはサルの目を引きつけた。輝く朱の宝石のようだった。いや、サルが宝石を喜ぶというのは、あまりに人の心理を投影している稚拙な表現だった。
 
サルは用心深く木に近づいていく。人の気配はない。突如、あの轟音が響いて、その瞬間自分は倒れて動けなくなるかもしれないという用心だけは、サルであっても心に浮かぶものだった。だからいよいよその宝石を間近に見るところまで来て、急いで木に駆け上ったとき、もう無我夢中で、興奮は最高度に高まっていた。
 
サルは何者かに唆されたのではなかったと思う。毒味のつもりであったのか、あるいはただ自らの空腹を満たすために夢中でだったのかもしれない。実を握り、捻ることでもげることはサルは熟知していた。以前は山の中でもそんな実がふんだんにあったのだ。どだい、人がいない山中で木の実を探しているほうが、安全で気持ちが好いことは歴然としていた。何も好きこのんで人間の気配のする場所にやってきたのではない。最近は、めっきり山の中の実の育ちが悪い。毛皮を脱ぐわけにはゆかないサルにとって、この夏の暑さはひとたまりもなかったのだ。そのせいか、秋になっても、いつも実るような食べ物が、いっこうに見えてこない。この山はいったいどうなってしまったのかと不安に襲われるのだった。
 
だがいま、柿がちゃんとここにある。山の中で見たことがないくらい、まるまるとした柿だ。いよいよだ。甘い柿を口に運ぶ。歯が実に触れたとき、もう我慢ならず、芸術的にかじろうなどという色気は吹き去ってしまうのだった。食す・食す、と湧き上がる興奮のるつぼが喉に、現実に先走る食欲の満足感をもたらし始めていた。ところが──
 
なんだ、これは。反射的にサルは、柿を握った手を振りほどくように伸ばした。歯に当たったままだったため、歯と顎にいくらか痛みを覚えるのは、この際誰にも文句は言えない。何事も諦めが必要である。朱色の柿は、その完全な球形を壊されたまま、重心が移った状態で不規則な回転をしながら、放物線の半分を描きながら地面に吸い込まれていくようにサルから遠ざかった。そして何度か軽く地面をノックしながら、さらにいくぶんか遠くに転がっていった。
 
サルはもうその柿を見る余裕はなかった。酷い目に遭った。なんて不味いんだ。これが柿というものなら、もう一生柿など食わなくてもいい。見かけに騙された。山の中の柿は甘かった。少なくともこんな味気ない代物ではなかった。失恋めいた思いのまま、サルは木を降りて山へ向けて駆けていった。四つん這いでのフルスロットルは、口の中の苦味を少しばかり忘れさせてくれた。なにせ、人間に見つかり、不思議な音と共に倒される危険性を、忘れていたのなかったからだ。
 
 
捨てられた柿。好んで渋く生まれたわけじゃない。一口囓られた状態で、種を運ばれることもなく、ただそこに捨てられた。何のために果実をここまで育んだんだ。つい先ほどまで自分が世界を見下ろしていたと思っていたのに、いま母なる木を見上げて、傷ついた柿は大地に寝転がっていた。いや、正確に言うと、やや草の陰になっているような場所だった。光は当たるが、時間帯によってはそれもない。また、人目につかないような角度で、世界の目から隠れているような立場にあったと言えるかもしれない。
 
じっと寝転がっていた。秋を数えていたとはいえ、陽当りのよい場所だったため、照りつける太陽で柿は静かに寝ていた。養分の供給もなくなった状態で、捨てられて放置されて、この実はもう役立たずとなり、ただ死を待つだけの存在になってしまった。体が少し変化するのが分かる。きっと間もなく、蠅が臭いを嗅ぎつけてやってくるだろう。そうしたら、自然に腐敗していくよりも、早くこの身がぼろぼろにされていくに違いない。薄れていく意識の中で、柿は絶望だけに包まれていた。こんなところで干からびては、せっかく備えられた種子も、芽生えることなくここで朽ちていくことになるだろう。どうか奇蹟が起こり、別の動物が種子だけでも運んで、土の中に入るようにしてほしい。体内温度がぐんぐん上昇するのを覚えながら、柿はいまにも気を失おうという状態になっていた。
 
じわじわと温度が下がってきたのは、それからしばらく経ってからのことである。光が消え、遠くに白い粒が、最初はぽつんとひとつ、その後いくつか、そしていっぱいに増えてきた。だが柿は、自分からは動くことは何ひとつできなかった。ただ、どういうわけか、恐れていた蠅は集まってこなかった。このあたりにそういうものがあまりいなかったのかもしれない。
 
だいぶ経って、また世界は光を取り戻した。修行に耐えるかのように柿は肉の汗を流し、やがてみた涼しい時を迎えた。こんなことが何度か続いた。普通なら、ここで完全に腐敗臭を漂わせて朽ちていくものだっただろうに、この幸いな柿は、ただ転がってなんとなく自分の中で何かが変化するのを覚えるという程度で過ごすことができた。   日が暮れた。その日も蠅は来なかった。だが、何かが近づく気配がした。四つ足の、何者かだ。人間じゃない。足音のようには感じられなかったからだ。柿は緊張した。だが確実にそれは、こちらへ近づいている。自分を認識している者の近寄り方だ。ああ、それならそれでいい。この実は食べられても、核として隠し持っている種子を運んで行ってもらえる。それならば本望だ。それでこそ、実らせた努力が実るというものだ。


暗くても、においは正直にその在処を教える。これは美味しそうな果物のにおいだ。少しばかり首を動かして、確実にその目的の方向を定めるために、鼻を利かせているのは、タヌキだった。人間どもの中には、タヌキは腹をたたいて踊るとか、空中に一回転して人間の姿に化けるとか、二足歩行ができるとか、あまりウケない冗談をたたく者がいるらしかったが、タヌキは至って用心深い、しとやかな動物であった。僅かな光でも十分見える。また、食べ物を知るには鋭い嗅覚の鼻があれば迷うことはない。
 
その甘いにおいは、確実に近くなっていた。幸い、敵のいるような気配も感じないから、どうやらこの甘い獲物は自分のものになりそうだとタヌキは皮算用をしていた。近い。近くなると、方向性がそれまでと変わってくる。左だ。タヌキは左に進路を変えた。そう、そちらだ。ぐんぐんと加速度的に近づいて、ついに、ついに鼻先がその対象を仕留めた。
 
柿だ。しかも、これは相当に甘い部類だ。タヌキは舞い上がりそうな気持ちになった。そのまま一回転したら、人間にだってなれそうだった。舌でちょっと舐めてみる。うん、間違いない。この甘さは、完熟度抜群だ。しかも一部が剥き出しになっているから、においの漂い方が違う。しかし、なぜに、とタヌキは考えた。これほどの玉が、どうしていままで誰にも見つけられずに済んだのだろう。何か騙されているのではないだろうか、と一瞬ためらったのも確かだった。確か隣の部族のひとりは、美味しい餌に誘われていくと、とたんにガチンと金属音がして途端に動けなくなり、なんとも悲しい叫び声を挙げてのたうち回っていたと聞く。近くにいた仲間がそれを目撃したというのだから間違いない。そしてそれきり、そのひとりを見た者は誰もいなかった。
 
タヌキに、その話が急に近く思えてきて、身震いがした。だが、このにおいがもたらす欲望を抑えることはもうできなかった。舌先だけでは我慢できない。齧る。最初は小さく、だが甘い汁が口に感じられたとき、欲望はもう堰を切って流れ出し、もう誰も止めることができなくなっていた。もう夢中で齧った。そしてこのタヌキの歓声を咎める権利は誰にもなかったし、小躍りするタヌキはまさに、腹鼓でも打っているかのようであった。
 
 
こうして柿の種子はタヌキの腹に入り、そのまま山に運ばれ、再び外気に触れたとき、子孫繁栄のための安住の地を得たのだった。そこでこの顛末を振り返りたいのだが、サルは何の働きを、誰に対してなしたのかというと、これを綴っている私も、一向に分からないのであるが、どなたかご存知であればお教え戴きたい。



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