【メッセージ】人間的な和解
2019年8月25日
(創世記45:1-15))
ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。(創世記45:1)
嫌疑をかけられ、ベニヤミンを置いていけと迫られた兄弟たち。ユダが切実に、父親の苦悩を告白するのを聞いて、さすがのヨセフも堪えられなくなったといいます。ヨセフは、実の弟であるベニヤミンをエジプトに引き寄せることを目的として、ここまで兄たちに無理難題を迫ってきました。いわば自らの策略で、兄たちを苦しめてきたわけです。しかしそれが、父親を苦しめるということに及ぶことがひしひしと伝わりました。このまま身を明かすことなく、後でベニヤミンにだけ、自分が兄のヨセフだと告げようと考えていたものと思われますが、ヨセフの気が変わりました。もうその計画通りにはいかないのだ、と。
もし、当初の思惑どおりに、ベニヤミンだけをエジプトに呼び寄せ、自分の身を明かしたとしたら、どうだったでしょう。ベニヤミンは喜んだでしょうか。むしろそんな兄を軽蔑したのではないでしょうか。なにぶん、本人は知っているのです。銀の杯をこっそり盗んだのではない、ということを。しかしいくら自分がしたことでなくても、大見得を切って、杯がその者の袋から見つかったら、その者は死罪にしても構わないとまで言った一同でしたから、いまさら引っ込みがつかなくなったのでした。逆らうと、食糧そのものの調達という契約まで反故にされる可能性があります。絶大な権力を有するエジプトの宰相の前には、沈黙しかないのです。その弱みを逆手に、弟の自分を招くように仕向けた兄を尊敬できるものでしょうか。
一般に、この場面は、ヨセフが恰も神の計画を知り尽くしたようなふうに紹介され、神があらゆることを益にしてくださるという信仰を示すように伝えられることが多いのですが、人間心理を冷静に辿れば、こんなに醜いエゴはありません。ベニヤミンとて、お兄ちゃん、と抱きつくような場面では到底ないはずです。つまりは、ヨセフもまた、神の計らいの中で方向転換をさせられたという点を捉えておかなければなりません。
ヨセフは「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか」と兄たちに尋ねます。たったいま、父の様子についてはユダの口から聞いたはずです。なんともちぐはぐな質問ではありませんか。ヨセフが慌てふためき、混乱していたと思しき発言です。兄たちはその矛盾に気づく前に、「わたしはヨセフです」に驚嘆してしまいました。「答えることができなかった」のも尤もです。
改めてヨセフは近寄り、ヨセフであることを示そうとします。そして、「あなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」と、根に持つ部分をぶつけずにはいられませんでした。このフレーズはアイデンティティの問題ではなく、ヨセフ自身の中で、兄たちとの関係は基本的にここにしかないものと思われます。また、エジプトに売ったのは兄たちではありませんでしたから、結果的にそうなったことを兄たちの責任にしてしまっていることにもなります。ヨセフの中での執着を感じます。
「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」とは実に美しい言葉のように、私たちは読むかもしれません。でもそうでしょうか。ヨセフは兄たちに罪を悔いる必要はないと告げますが、逆に言えば、これは悔い改めるべき問題だと突きつけていることにならないでしょうか。そして互いに兄たちの間で諍いが生じることを予測して、それを必要のないことだと、高みに立ったような言い方をぶつけています。ヨセフは兄たちを赦したというような言い方を、少しもしていませんし、ここまで騙して済まなかったというような気持ちも全く見えません。信心深いような、神への信頼を示しているようですが、どうやらすっかりヨセフは、自分が神の立場から見下ろしているかのようです。
ここからヨセフは、至って事務的に、事の次第を説明します。飢饉はまだ五年間続くこと、そして先ほどまでの思惑とはうってかわって、兄弟たちと父親とをエジプトへ呼ぶこと、しかもそのことが神の計画であったのだという、咄嗟のひらめきでものを言ったかのような発言に聞こえてしまいます。これをなすのは神だ、というようなフレーズがしきりに出てきますが、ヨセフがやろうとしていた思惑とはどうしても重なり合いません。
父を呼び寄せて食糧豊かなこのエジプトで、兄弟すべてが自分のそばで暮らすことができると言い、ゴシェンの地を用意しているなどと、全く予定になかったようなことをいとも簡単に決めてしまいます。王位のほかはあらゆる権力と自由を与えられていたとはいえ、元来予定していなかったことを告げているのですから、物語の通りに展開したのだとすると、なかなかついていけないように思います。
「ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った}(45:14-15)とは、あまりに美しい再会と和解の場面ですが、果たしてどうでしょうか。私たちは、あまりにこの美談に慣れてしまっていないでしょうか。兄たちはただ懇願の中にあり、ヨセフは兄たちのかつての仕打ちを必要以上にオーバーに根に持ち、つい今し方まではベニヤミンだけを必要としていた中で、感情的になり急遽父親とさらに兄たちをも呼び寄せて面倒をみるということを決め、なおかつこれだけの陰謀を以て仕組んだことについて詫びを入れることも、謝ることもなく、そして相手を赦すというような発言もしていないのです。
教会ではよく、悔い改めよと教えます。これは過去を悔いてくよくよするという意味ではありません。人はそもそも神とのつながりを欠くようになっており、神と適切に向き合ってはいない状態にあります。これを罪といいます。神に背を向け、自分本位で好きな方向に歩いていた者が、いま向きを変え、神に向き直り、適切な関係を神と結ぶべく和解を果たす、そこに救いが成り立つのですが、この方向転換を、悔い改めといいます。そのためには、世にてなしていた、人との間で解決していない問題にけじめをつける、という営みが必要だと教えるのが、教会のひとつの導きでした。
盗みをはたらいたこと、キセル乗車を平気でしていたこと。この問題を当事者に明かさなければならない。私はそのことはひどくきつく迫られました。もちろん、他にも、心を傷つけたような行いは数限りなくあるわけですし、土下座をしても許してもらえないようなことを数多く行っていたことは確かです。それは今なお、なんで自分のところに謝りの意を示さないのか、と私を訝しく思っている人も確実にいることを自覚していますので、多少の「罪の告白」で済むものではないわけなのですが、さしあたり実質的な「犯罪」はゆるがせにはできないと思わされました。それをしないと洗礼はできない、という気持ちにさせられたのです。
いまはどうでしょうか。見渡す中で聞こえるのは、「あなたはそのままでいい」という決まり文句。いまのままでいいのだし、あなたはそのままで神の前に価値がある、というメッセージが全盛のように見えます。それはそれでひとつの福音ですし、これを否定するつもりはありません。でも、そればかりなのでしょうか。「そのまま」というのは、神の方を向いていないままでいいはずがありません。これまで神を知らずに自分勝手に生きてきたが、これからもそれでよいのだ、というあり方を推奨するのが聖書や教会であるようには到底思えません。方向転換をする必要は端的にあるのだし、生まれ変わる必要があることもはっきりしています。生まれ変わるということは、一度死ななければならないということです。
自分で自分を救おうと特別なことをするのではなく、神にその業は委ねる、というような意味で「そのまま」なのは確かです。自分でこれだけの償いをしなければ救われない、と考える必要はありません。「そのまま」の自分を神の前にもっていき、キリストの故に神との関係を結ぶことが求められます。そのとき、かつての私自身はキリストと共に死に、共に十字架につけられるという経験をします。イエス・キリストを通ってでなければ神に会うことができないという信仰が、キリスト教と呼ばれる道なのです。
ヨセフの物語は、救いを示しているのではありません。人間的な和解のひとつのモデルを私たちに教えてくれます。それは、神との関係における和解ではないということです。だから、ヨセフのように、悔い改めや赦しをそこに感じさせなくとも、それはそれでひとつの美しい出会いになりうるわけです。私たちが人の世で互いに平和を築くようになる有様は、神との間でのそれとは違っていてよいのです。神との間で成り立つべきストーリーからすると、生温く、不十分であるような一幕ですが、これを否定する必要はありません。これは人間的なストーリーなのですから。
ただ、ヨセフと兄弟たちの場面に「ないもの」に注目するということは、普通あまり強調されませんでした。さも神が主役であるかのように言葉を発しながらも、ヨセフ自身が神の前に私たちが救いの時に経験するような幾つかの過程を示していたというわけでなく、そこに「ないもの」が何であるのか、私たちは冷静に見つめようと考えました。ヨセフの姿を模範とするのでなく、ここではただヨセフは神の道具としてイスラエル民族の命運を変えた、ドラマチックな担い手であったという意味を以て、この創世記のヨセフ物語を理解しておくに留めるようにしたいと思います。そして、キリストのもたらした救いのメッセージが、如何に人間的な感情を超えた、絶大な変化をもたらすものであるかということを、改めて新約聖書の世界に期待したいものです。