【聖書の基本】誓うな (マタイ5:33-37)
2019年8月25日
「偽りの誓いを立てるな」(5:33)は原文では一語の動詞に、英語でいうnotが付いている形です。誓ってなお実行しないことを意味しているとも言えます。確かに、これならよくないということは分かります。それはいわば常識でしょう。他方、イエスはそれに対して何と言うのでしょう。「一切誓いを立ててはならない」(5:34)、それがイエスの端的な命令でした。何々にかけて、と諸例を繰り返すのは、「一切」と告げているのになんだかくどい気もしますが、それほどに人は、何ものかに「かけて」誓っていたものなのでしょう。
古代ギリシアで哲学の営みが始まった頃には、いろいろなものにかけて誓いを述べるのが習慣でした。未確認ですが、キャベツにかけて誓うとか、山羊にかけてとか、水や空気にかけて誓うというような記述もあるそうです。有名なソクラテスは、プラトンの描いたその作品の中で、しばしば「犬にかけて誓う」と言っているのは確認済みです。犬の顔をしたエジプトの神に関係があるのではないか、と考える人もいるそうですが、畏れ多い神に直接誓いを立てるのは無理だという回避の心理がそういうものへの誓いに影響を及ぼしているのでしょうか。ガチョウに誓って、などというと、なんだかふざけているようにも思えますが、それなら誓いを破ったとしても、神に罰されまい、とでも考えたのかもしれません。
人間が口にする誓いというものは、真実なものではない、という前提が、言うほうにも聞くほうにも了解されていたのだと思われます。ですから「偽り誓うな」という常識があった時点で、人間にはそもそも「誓う」ということが不可能なのだ、ということは分かり切っていたようにも見えます。そういえば、この常識とされていた『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』の「必ず果たせ」という部分は元々「主に返せ、リターンせよ」というような一語です。人間が誓ったことは、主に返せ、という意味ですから、とてもとても全能の主にそんな大それたことができる人間はいない、というふうに思うのがひとつの誠実な捉え方でありました。なんだかそれが、「偽りと分かっていて誓うのはよくない」という程度の教訓に成り下がっていたのを、イエスは根本原則に立ち帰って突きつけたと受け止めることもできるような気がします。
人間が、自分で何とかしようという決意のようなものとして、真実を貫きますという意味で誓う、と見ることもできましょう。だから、選手宣誓をしてから始まるスポーツは、スポーツマンシップを貫く意志の表明となっています。但し、このsportsmanshipは近年のジェンダーフリー(この語は和製英語)、つまりジェンダー(性)に配慮した言い換えを推進する動きからすると、fairnessというような語に置き換えるべきだと考えられていますが、ここはまだあまり進んでいないように見受けられます。結婚式で、永遠の愛を誓うというのは定番ですが、多分に「あなたは神の教えに従って、夫(妻)としての分を果たし、常に妻(夫)を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康の時も、病いの時も、富める時も、貧しき時も、いのちの日の限りあなたの妻(夫)に対して堅く節操を守ることを約束いたしますか」のような質問が投げかけられます(日本同盟基督教団式文)。周到に「誓う」という語が回避されているのが分かります。二人だけの力では全うできないものだから、三つ撚りの糸(コヘレト4:12)が結婚式の場でよく開かれることになるのでしょう。
いったい、誓わないと信用できないものでしょうか。人間、自分が信用されていることがひしひしと分かるときには、それを裏切るまいという思いが強く働きます。私たちが自分から誓うぞといきり立つより先に、まず十分に信頼されているという自覚が十分にあった時に、自分も何ものかを信頼するという生き方が強められるような気がします。誰からも信頼を受けずにいるときには、誰をも信頼できないものです。引きこもりとか孤立とかいう社会問題がありますが、何かしら心理的に問題を抱えていると考えられる人の場合、この関係のトラブルが問題をこじらせ、歪んだ行動へと展開すると思しき例が多々見られるような気がします。良好な人間関係を営んでいる人にはなかなか分かりづらいところですが、これをキリスト者は、神と自分との信頼関係がどう結ばれているかという点に目を向けることで、考察することができるのではないかと思います。
逆に、軽々しく誓いをするということは、この信頼関係を無視して自分だけでその場限りの恰好つけのために口先だけのでまかせを平気で言っていることになってしまいます。誓いというのが形式的なものになり、本来の神の前での厳格な意味を軽んじるようなことになっていないか、考えてみましょう。裁判の時には、証人は嘘を言わないという誓いが必要とされます。もちろん、被疑者には黙秘権というものが認められていますが、証人のほうには黙秘権は考えられていないと言われています。なんとかこれを前提としないと、裁判というものが成り立たなくなると思われるからでしょう。
アメリカの新大統領就任式においては、(西暦が4の倍数である年の秋に選挙が行われ、翌年の)1月20日正午に、聖書に手を当てつつ宣誓します。「私は合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽して合衆国憲法を維持、保護、擁護することを厳粛に誓う」(アメリカ合衆国憲法2-1-8)という定文で、最終部分は「So help me god. 」となっています。一切誓うなと言われてもなお、このように誓わざるをえないほど、この人間にだけは間違いや偽りが起きてはならない、という戒めなのでしょうか。果たして民主政治が、それを果たしているのかどうか、それを神に返しているのかどうか、問われていると見たいと思います。
マタイはこのペリコーペ(聖書で礼拝で取り上げることになる一連のまとまり)の最後に、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(5:37)と締め括りました。見る限りで新改訳聖書だけが、新版でもなお、ここを、然りは然り、否は否、とヤコブ書(5:12)のように訳していますが、定冠詞の有無が違うために、そのように理解するのは無理があるように見受けられます。端的に「そう、そう」「いや、いや」と肯定と否定を繰り返しているだけで、これがすでに誓いの形式になっていると捉えるのがなんだか自然であるようにも見えます。しかしそうなると、マタイは、イエスが「誓うな」と言ったにも拘わらず、直ちに誓いの形式を弟子たちに提供しているという、不思議な場面になってしまいます。研究者は、ヤコブ書のほうが本来のイエスの言ったことと思われると概ね結論しているそうです。マタイのこの箇所だと、天や地にかけたり、エルサレムにかけたりして誓うのではなくて、ただ神に向けてYesかNoだけを告げて誓え、と言っているかのように聞こえてしまいます。少なくとも、ユダヤ教の方では、このような理解がなされていたようにも調べられていると聞きますが、さて、私たちはどうすればよいのでしょう。やっぱり、社会的には、何らかの誓いというものがどこかで必要になるのでしょうか。