聖書は誤らない
2019年8月20日
聖書は誤らない。こう言うと、そんなバカなことはない、と文句を言われそうです。逆に、そんなことは当たり前じゃないか、と言う人もいるかもしれません。
このような言明は、言葉の定義が問題となります。「聖書」とは何のことを指すのか。いま日本では日本聖書協会などが発行している、あの聖書のことなのでしょうか。いや、ギリシア語原典だとか、ヘブライ語などによる旧約聖書も加わるなどというふうに思う人もいるでしょう。しかし、それは見出された思料により様々な相違のあるもので、何万という種類の「原典」があることになります。日本語訳聖書が底本としている、あれこそが聖書だ、と思ったにせよ、その恣意的な判断は信用が置けるものでしょうか。少なくとも、それだけが「聖書」なのであって、他のものは嘘だと言えるのでしょうか。また、言えたとするなら、その理由や根拠は何なのでしょうか。
学者は、少しでも聖書の本来の姿を探ろうと努力しています。オリジナルのものが発見されておらず、また発見が望まれないが故に、推測によるわけですが、最初に成立した「聖書」を目指すというのが基本的なスタンスであるように見受けられます。しかし、最初のものこそが「聖書」であるのかどうか、も検討の余地があります。人間の著作であれば、改訂された新版のほうが、誤りが減り、改善された作品であることになります。果たして夏目漱石の第一稿が本当の漱石であって、改訂された作品は価値がない、というふうになりはしないように思えます。もちろん、聖書の場合は別人の手により改訂されていきます。不用意な書き込みが本文と思われて筆写されていった部分もあるようですし、写本の元のほうの意味が通りにくいところを、筆写する人間の判断で修正したという部分も多々あるようです。しかしその思い込みが、元の版の意図を理解し損ねていたために、写した者の誤解が構成に遺るということもあるわけで、いったいオリジナルがよいのか改訂版がよいのか、もう聖書という文献になると、単純な判定ができないということになります。
旧約聖書と呼ばれる部分は、新約聖書に比べると比較的オリジナル性が保たれているとも言われますが、それとて、様々なバージョンや変化があり、さらにユダヤ教のほうで認められた版と、キリスト教徒が初期によく利用したギリシア語訳のものもあります。それにそもそも、何を以て「聖書」と呼ぶのか、その範疇ですら、人為的に決められたということを考えてくると、いったい「聖書」とは何であるのか、定義すら全くできないとしか言いようがありません。
さらに、この「聖書」は主語の部分でしたが、もうひとつ述語の「誤らない」つまり「誤る」とはどういうことを指すのか、極めて曖昧で、使う人の思惑ごとに皆違うとさえ言えそうです。事実との一致がない故に誤っているというのか、歴史的事実と違うことが記されている故に誤っているというのか、予言のとおりにならないから誤っているというのか、あるいはその逆に誤っていないというのか、極めて曖昧です。内容的に祖語があるというのも、書いたのが人間だから誤っていることはあるが、書かせた神に誤りはない、などという説明もありえます。いや、その書かせた神という考え方自体が信仰的なことにほかならず、それを認めるか否かという点から議論が対立するという理解もあるわけで、いったい何を以て「誤らない」と言っているのか、これまた定義不可能というふうに言わざるをえません。
かくして、私は私なりの気持ちをこめて、意味理解を含めた中で、「聖書は誤らない」と口にするだけで、他の人がどう言うかについては何の問題も感じていないということになります。これをいわば科学的命題として真偽を判定するということ自体が無意味な言明なのです。これが信仰的な理解ということなのであって、無責任なようですが、一人ひとり、受けとめ方により成立する命題であり、そう言い切ることで私が、私にとっての格率としてこれを引き受けるという私の生き方の問題だということくらいなら、積極的に言うことができるのではないかと思われます。
カントは道徳律に関して、認識的証明はできないとしながらも、それは「理性の事実」であると言ってのけました。それに倣うとするならば、私にとり聖書は「信仰の事実」です。世界中の人々に責められたとしても、私は聖書を信頼する。この言葉が私を助けた事実は消えないのです。