窓の外と内

2019年8月16日

パソコンと言えばWindowsが普通だと思われるかもしれませんが、Macintoshも10%弱は確保しており、芸術関係では定評があると言われています。これら二つの内では私は最初にマックに触れ、後にマイクロソフトを使うようになりました。この分野を開拓したのはマックのほうだと理解しています。しかし今では数からするとマイクロソフトの天下となりました。それは、かつてソニーが開発をした製品を、松下が同様のものを作り商売の巧さでシェアを勝ち取ったというのと少し似た構造があるのではないかという気がしています。
 
このWindowsという名がどのような意味を以て考えられたのか、については調べておらず、実のところさして興味もないのですが、案外これを含蓄の深いものとなっていると思うので少し記します。アプリケーションが新しい「窓」で開かれていくという様子を示すものだとは思いますが、その他にそこから考えてみたいことがあるというわけです。
 
私が、私の見たいもの、知りたいことを、その「窓」で呼び出し、そこから見ます。「窓」からは、世界中のものを知ることができます。地球の反対側の様子も、その「窓」の中に映し出され、私はそれを見物することになります。
 
そう言えばテレビも、そのようなものとして論じられたことがありました。テレビという箱の中に世界が映る。私たちはお茶の間(?)で、箱の中の世界を見て、知った気になる、という具合です。けれども、その箱から出てくるものは、一方的に配信されたものでした。私たちがチャンネル(?)を選んでいるようで、実のところ送られる情報を信用するだけの受身になっていることを弁えておかなければなりません。
 
いやいや、双方向通信だから、こちらがオンデマンドなんだよ、などと考えていると、それがまた危ない。こちらが選ぶイニシアチブをもっているかのように思わせておいて、結局操作されているということは普通にあることです。選択問題はやはりその選択肢のほかには目がいかないように仕向けられているわけです。
 
Windowsは「窓」であり、そこから世界を見ることが自由にできます。それはテレビに比べると自由度は遙かに増しますし、それは無限に近い選択肢をもつとも言えますから、すっかり自分が主体となっているという気持ちにさせられます。しかし、それでもあることについては、テレビと同様に、依然として問題をはらんだままにあることを知る必要があります。
 
それは、私が「窓」の外の世界の景色を見ているだけで、私はその景色から身を引いた「内」にいるわけで、いわば世界の「外」にいるつもりになっている、ということです。
 
私は、その世界の「内」にはおらず、世界を「外」から眺めている。この指摘だけで、ハイデガーのいう「世界内存在」を破っていることが見通せるだろうと思いますが、「窓」を用意することで、私たちは、災害の地や、砲弾が飛ぶ戦地や、飢餓に喘ぐ地から、自らを安全な「外」に置き、「客観的に」世界を眺めている身分で優雅に暮らしているという構図がそこにあるということです。
 
そのような私たちのいる世界とは、如何なる世界でありましょうか。それでも私たちは、そのような自分が眺める世界の中に、自分が属していないと思いなしています。私たちは、何をするにも自由であると錯覚し、自らを「神」としていることになるのです。
 
電車の中でスマホをいじる人々は、携帯の「窓」を用いて、一人ひとりが神になったつもりでいます。自分は電車に乗る一員としてのルールを遵守する義務を負うとは考えていません。リュックは邪魔だと放送されても気にすることなく、歩きスマホは危険だと言われても聞き入れることがありません。
 
いえいえ、これはもう枚挙に暇がないほどにいろいろあることで、スマホに限らず、街の中で、自分だけはルールに従うつもりがなく、自分は世界の「外」から眺めている「神」なのだ、というような態度を見ることは、いとも簡単です。街はそのような「神」に溢れています。
 
パーソナルコンピュータは、パーソナルという名が付くにも拘わらず、なかなか個人個人に行き渡りにくかったのですが、スマートファンになって、完全に端末というものがパーソナルなものになった、ちょっと皮肉な命名のような気もします。そして、一人ひとりが「窓」の「内」の住人として、世界は一人ひとりの世界なるものが、その自分だけを例外とした構造で別個に存在しているのだというような、歪んだ構図がそこにあります。アーチスト関係でよく言われるような、「世界観」というまとめ言葉の成立事情がここにあります。誰それの世界観というのは、その人の「窓」の「外」に見えるものです。それはその人にとっての世界であり、自分だけは例外として、つまり「神」として君臨しているつもりになっている、ひとりぼっちの世界であるわけです。
 
しかしそれは幻想です。自分は決して例外ではありません。あなたは法に従わねばならないし、自然法則に従うものとしてそこにいます。「窓」の「外」も「内」も、実は同じ世界です。これを錯覚させるような「窓」が悪くてその原因なのだ、とは申しません。しかし、このような人間の傾向性を助長させる「窓」によって、ますます人間たちは自分を「神」としていくようになっているとすれば、もはや偶像とは刻んだ像などではなく、「窓」のこちらの自我こそが偶像になっている、という点を考えなければ、キリスト教の罪や救いといったことも、何の説得力もなく、依然として「窓」の「外」の世界の出来事であるとしか捉えられないものになっていくことになるでしょう。
 
まずはこれを意識して認知することから、始める必要があるということだけは、確かです。



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