【聖書の基本】律法と預言者

2019年8月11日

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)
 
どうにも抵抗のある訳語です。「律法を廃止する」なら分かります。しかし日本語として、「預言者を廃止する」というのが、つり合わないのです。ただ、そういう語が使われているために、そのように訳さざるをえないという事情があるようなのですが、意味するところは「預言書を廃止する」というようなことだという了解があるという前提でいるようです。聖書本文でも「律法」「預言者」のように、それが書の題名のようなものであることを示すようにしてあると、引っかかりなく読めるのではないか、と私は思うのですが、そう言えば聖書本文にはこのような「 」が使われていないのですが、「美しい門」(使徒3章)のように固有名称であることを示す例がありますから、付けてもよかったのではないかという気がするのですが。
 
私たちクリスチャンが「旧約聖書」と呼んでいるものは、今の形にまとまったのは1世紀末ではないかと言われています。ところで「旧約」という呼び方自体、キリスト教側からの一方的な価値観の押しつけなのですが、ユダヤ教の人々にとっては唯一の教典を「旧」と称するのは、考えてみれば失礼なことです。そのため近年は、「ヘブル語聖書」のような言い方を、キリスト教側でもすることがあります。ユダヤ教へのリスペクトというわけです。
 
しかし、正典が正式にまとめられていなかったとしても、イエスの時代にも、一定の形で旧約聖書は権威づけられていました。
 
それらは「トーラー(律法)」「ネビイーム(預言者)」「ケトゥビーム(諸書)」の部門に分けられ整理されており、そこに含まれるかどうかという点で意見の相違が多少あったということになります。日本語のカタカナで書くと分かりにくいのですが、この3つの言葉の頭文字をつないだらヘブル語では「タナハ」と発音することができ、この「タナハ」が一般に「聖書」全体を意味するものとして理解されています。この3つのうちで特に重要視されたのはもちろん「律法」です。創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記の5つから成っています。、北イスラエルではこれを以て「サマリア五書」として唯一の神の正典として尊重していました。紀元前2世紀までにはまとめられており、サマリア独特の方言で記されているといいます。一部の記述に、ユダヤ教一般の五書との食い違いがありますが、概ね内容は同じです。
 
ユダヤ教の「預言者」には、ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記が含まれ、その他は私たちが預言者の書と理解しているのとほぼ同じです。注意するのは、ダニエル書です。これは「旧約聖書続編」のほうに有名な物語が付け加えられるなどし、また黙示的な要素が強いこともあってか、「諸書」に入れられており、「預言者」にはカウントされておりません。従ってイエスがマタイの記録するような言い方をしたとすれば、その念頭に置いていたのは、このヨシュア記から列王記までと、預言者の書が含まれる塊であっただろうと思われます。
 
ところで、いわばかつての聖書を棄てるためにイエスが来たのではない、とイエス自ら口にしたとマタイが記しているのは、なんとかこれまでの神の言葉が現実のものとなっていったのだということを訴えたいマタイの気持ちからくるものと思われます。
 
新しい時代の理解が始まろうとするときに、これまでのものを全部棄て去るのでなく、むしろそれの本当の目的が達成されるのだ、という考え方は、大切にしたいものです。それは、伝統的なものを尊重すると共に、伝統的なものを変えていくことの両方を促す原動力となる考え方です。私たちがえてして「伝統」と呼んでいるものは、案外最近の習慣や理解の仕方に過ぎない場合がしばしばあります。女性が専業主婦として家にいるとか、天皇を神的に扱うとかいうのも、ごく近代に作られた思想に過ぎませんし、教会音楽といえばオルガンに決まっている、などという決めつけも、キリスト教が日本に流れこんできた時代に限定されたものを絶対視するものとして、固定されるべきものではなかったわけです。礼拝プログラムも、古来いろいろありましたし、宗派によっても雲泥の差があります。何かを絶対視するのは、いかにもカルト的でもあり、また排除の論理に基づく危険な姿勢ともなりますから、私たちとしては、せいぜいあのファリサイ派や律法学者たちのような振る舞いや考え方をしがちな自分に気をつけよう、という自戒をもっていたいと願わざるをえません。



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