数独と聖書の物語
2019年8月10日
Sudokuの名で世界中に知られるようになった、ナンバープレイス(ナンプレ)。最初に作成したのは日本人ではないものの、日本の雑誌『パズル通信ニコリ』で「数独」(数字は独身に限る)と名づけられたこのパズルが、逆輸入のように紹介されて爆発的ブームになったことから、Sudokuが世界の共通語となっていったそうです。選手権名も「World Sudoku Championship」なのだそうで。
原理は単純なので、問題作成のプログラムもあるといい、一定のアルゴリズムで作成可能のはずです。簡単な問題は、どこかに確実にその数字しか入れられないという場所があり、それを入れると他の個所もひととおりに決まり、そのようにして次々と他の場所も埋まっていきます。子どもの思考力を高めるためには、そのようなものが利用されます。
難しくなると、ひととおりに決まらないので、たとえばある箇所には、残された数字として1か4か7のどれかが入ることが分かったら、とりあえず1を入れてみて経過を調べ、行き詰まったら4にしてみて、というように、試行錯誤の過程が必要になってきます。その分手間がかかり、根気も必要です。
しかし、いずれにしても、解答があることは確かで、相当難解であったとしても、一定の手続きで作業を繰り返せば、必ず解答が見つかるのでなければ、パズルだと言うことはできなくなります。
さて、同じように、これが入るか、こうすれば矛盾がなくなるか、と調べているものの一つに、聖書文献があります。まずは正文批判という段階があり、そもそも原典はどうなっていたのか、これだけ写本により差異があるものについては、標準テキストというものがありうるのかどうか、というあたりから検討されなければならない大変さ。その上、その意味はなにか、ひいては神の意志はどうであるのか、その動機や過程は様々であるにせよ、意味的に探られている方面に立ち入ると、同じ文献を標準としたとしても、百花繚乱とでも言うべきか、理解の自由さはあまりにも大きすぎる現状があります。
これだけ人類の知恵が、信仰によって、ありとあらゆる聖書の文献を探り、調べてきても、聖書の意味が一意的に定まらないという事実。こうして考えていくとしばらくスムーズに理解できるが、ここで行き詰まる、そんな経緯を辿りながら、いやいや全然違うところから入るべきだ、などと別の試みが始まり、それがいいぞいいぞと多くの人の支持を受けたところで、やはりゴールまで行かないで挫折するといった繰り返しです。ある場面にかなりうまい具合に数字が埋まったとしても、ほんの一列や一区画だけが入ったように見えるだけで、他の列へはどう入れてよいか一向に分からないというふうにもなっています。
それでも、こう入れてみたらどうだろうか、その後うまくいくはずなんだが、などと呟きながら、人類の最高の頭脳が、今日も明日も、聖書と格闘しています。ありがたい研究です。その中には、聖書を神の言葉として自ら受け止めつつ、あるいは受け止めるために、探っている人もいますし、ただの古典文学や歴史的文献としてのみ関心をもち探っているという人もいます。動機は異なれど、探究対象として聖書は魅力がなくなることがありません。
最近、よく思います。「聖書」あるいは「神の物語」は、いまもなお書き綴られている最中ではないだろうか、と。私たちがこの言葉を大切にし、そこから何かを受け、生きる基盤として頼りにするように変えられていく、一人ひとりのストーリーが、現在も進行形なのであって、それらすべてが「書かれたもの」となっていくだけの価値を有しているのではないだろうか、と思うのです。え、いまの自分の生き方が「書かれたもの」になっているわけじゃないだろうって? そんなことはありません。天に名前が書き記されているというのは、まさに私たちのことが、神の国において「書かれたもの」となっていることを表しているのではないでしょうか。
イスラエルの民が、不信仰や失敗を重ねながらも、荒れ野を歩み、導かれ、おいたをして打ちのめされても、人生の勉強をさせてもらったかのように、親のありがたさを知るといった歴史を刻んでいったように、いまの私たち、そして私もまた、現在神が執筆中の「書かれたもの」の頁を飾っている、そんな幻が、時折見えてきて、仕方がないのです。