手話通訳者について、ろう者と教会について考えてください

2019年8月6日

真摯にこの事柄に向き合って戴きたいために、敢えてきつい言い方を以下で行います。手話通訳者などと言っても、教会にろう者はいないとお思いかもしれないし、手話に関心がない方には、何の興味も湧かないかもしれません。しかし今年のあの元号騒ぎの中で、手話を知る人には大事件があり、ツイートもえらい賑わいだったことがあります。四月でしたか、「令和」という元号が初めて発表されたとき、手話通訳者は、それを別の言葉で伝えたのです。
 
別の、という意味は、これを指文字で伝えたからです。「め」「い」「わ」と指文字で画面に映り、すべてのろう者は、新元号を最初に「めいわ」と理解したのです。
 
これは、この新元号の発表について、事前にはいかなる人にも知らせず、手話通訳者にも知らせなかったからです。しかし、初めて聞くその言葉をとっさに指文字で表すとなると、このような誤りは当然ありうることです。ろう者たちの間では、どうしてこんなに大事なことを事前に伝えておかなかったのか、とバズるのでした。もちろん、手話通訳者の能力を批判するのではありません。政府が、手話通訳というものをどのように考え、扱っているか、ということ、ひいては聴覚障害者をどのように考えているか、ということが露呈したことについて、怒っていたのです。
 
全く初めて一般の人が聞く言葉について、あるいは専門的な知識に基づき、どのようにして手話で伝えるかを吟味しないといけない言葉について、手話通訳者は事前にその言葉をどう表現するか、考慮する必要があります。手話ニュースなどは、それを踏まえた上で、相当な数の練習を重ねて、あの時間内にあのスピードで伝える離れ業を成し遂げている訳です。
 
これは、手話通訳やろう者の文化について、いくらかでも知識や理解があれば誰もが知ることなのですが、そうしたことに無頓着であると、気づくことがありません。どんなことを急に言っても、手話通訳者はそれを右から左へ流すように手話にしてくれるのだろう、というふうに考えている人もきっといるだろうと思います。
 
また、講演会など休み無く続く通訳の営みの場合、プロだと、手話通訳者は15分を限度として交代します。それほどに、集中力と頭脳と体力を使うからです。予め、出てくる言葉を吟味し、どのような表現に置き換えて伝えるか、またその発言者の言いたい意図を適切に伝えるかを考え、そのために使う手話も選び、限られた時間内で手話をこなすために、その話の内容を理解し、単語をくまなく調べ、知らない語については調べ、指文字にするべきところはできるならば動きの練習を重ね、そうして手話通訳の現場に立つという、手話通訳者の準備について、知らない人はあまりにも知らないし、ろう者にその情報を伝えることについて切実に考えていないものです。通訳者一人で長時間伝えさせるような環境も、私的な場面ではあるでしょう。しかしそれだと疲れ切って、手が動かなくなり、頭が回らなくなるという経験は、実際にやってみたことのない人にはなかなか分からないものです。こうしたことがもっと知られるようになってほしいと思います。
 
それは、通訳者への同情のためではありません。ろう者にそれを伝えるという目的のためです。口で言えば伝えたつもりになる、それを聞いていないほうが悪い、というような安易な考え方が、音声に頼ることのできない人々を排除し、疎外し、無視しているということが、なかなか分かってもらえません。手話通訳者に無理難題を平気でぶつけるというのは、このようにろう者や聴覚障害者には、その情報は伝えなくてよい、という意味になるわけですが、こうした背景を如実に示すものだったからこそ、「令和」のときの手話通訳の扱いに、手話関係者は憤ったのです。
 
具合の悪いことに、これはキリスト教会でもさほど変わりがありません。
 
中には説教の原稿を渡さない、あるいは渡したがらない説教者もあります。渡しても、礼拝の直前に渡せば事足れりと考えている場合があります。ザッと目を通せば、通訳者は説教の流れだけは知ることができますから、ないよりはよいのですが、言葉や表現の準備ができません。場合によってはろう者に、このような略し方をする、というような連絡もできません。それに、ザッと読んだだけでは、その説教が何を伝えようとしているのかを理解するまでに至らないこともあります。伝えたい一事のために、何をどう強調するか、それを解釈する営みも必要なのです。手話通訳とは、一語一語右から左へ手の形に置き換えることではないからです。
 
私のパートナーの場合、説教の原稿を受けるとまず読み、霊的なメッセージとして何を伝えるべきかを考えます。それから一語一語、手を実際に動かしてみて、ひっかかるところはないか調べます。時に、どのような表現でそれを伝えたほうが分かりやすいか、悩むこともありますし、分かりにくい単語は、今はネットで調べられるからずいぶんよくなりましたが、辞典などをも駆使して調べます。新しい単語を覚えるので、英単語のように幾度も練習します。固有名詞の指文字は一番辛いので、何度も動きを確かめます。このようにして、何時間も格闘した上で、礼拝に臨みます。手話通訳の資格をもつわけではありませんか、経験は多く、ろう者に福音を伝えたいというひとつの思いだけで、一週間の激務を乗り越えた後の時間を、このように費やして、喜んで礼拝に向かうのです。私の場合は、それよりは手を抜いてしまいますから労苦は限られていますが、方向性としてはだいたい同じです。
 
しかし、原稿が全くないような話が牧師の説教のほかに語られることもあります。通訳者にとり予定外のゲストが出て来て長いスピーチをしたり、専門的な語の並ぶ話を早口で、あるいはぼそぼそと語るようなことがあると、手話通訳者はたまりません。なんとか自分がまず聞き取ることに始まり、何を言おうとしているのかを推測し、解釈し、それに見合う手話を瞬時に探しだして、しかもちょっと考えている間に話はどんどん先に進んでしまう、しかもその分時間が長くなると疲れも激しくなり、頭脳も働かなくなる、ということで、ますます窮地に追い込まれていくのです。
 
同じことを、英語のできる方、想像してみてください。内容を知らされていないことを同時通訳で、一時間半以上強いられて、最後まで立派な通訳ができるでしょうか。伝えられるでしょうか。そんな環境があったとしたら、これはもう通訳されなくてもよい、という意味だとしか思えないのではないでしょうか。だから、先のようなことは、ろう者にはその話は伝えられなくてよい、と見なしているのでなければ、できないことだとも言えます。
 
ある教会には複数の手話通訳者がいて、15分くらいで確かに交代している様子を映像で見ました。すぐれた理解ですが、なかなか複数の通訳者はいないのが通常です。ただ、たとえひとりしか通訳者がいなくても、早口でまくし立てることを説教者が止めるだけで、いくらか助かります。それを、手話通訳者にもろう者にも全く無頓着な人も中にはいます。全くろう者へ福音を伝えることについて関心がないように見受けられます。いや、そんなこととは知らなかった、と仰るかもしれませんが、要するにそこへ関心がなかったために、知識をもとうともしなかったのだと言われるならば、弁解はできないでしょう。通訳者がそこにいるということが分かっていて、このペースでできるかな、という配慮が決定的に欠けているからです。ろう者は、ものの数に入っていないと言われても、仕方がないのではありませんか。
 
そこでさらに問いかけます。教会にろう者が突然来たとき、そもそも対応できますか。よく来ましたね、ではそこで座っていなさい、と、ヤコブの手紙にあることにも劣るような対応をとる以上のことができますでしょうか。手話通訳者を常備する、というようなことを言っているのではありません。対応です。これだけバリアフリーだとかユニバーサルデザインだとかいうことが叫ばれている世の中です。しかし車椅子が使えず、障害者を教会に寄せ付けない仕組みであるような新しい教会堂を設計するというようなことになってはいないか、いま一度真剣に考えて戴きたいと願います。ハード面だけでなく、ソフト面においても、ろう者が来ても誰もどうしてよいか分からないような教会であってほしくはない、と。
 
具合の悪いことに、しばしばキリスト教会はふだんから、「弱者に寄り添う」とか「少数者の権利を守る」とかいうことをスローガンにしています。そしていつの間にか、教会は善行を営んでいる、という気持ちになり自分たち自身ですっかり安心しています。しかし、現実には手話通訳者の問題を通して、ろう者を排除するようにしているのであって、ろう文化を理解しようなどと考えていないという実態があるわけです。ちっとも寄り添ってなどいないし、権利を潰してしかいないわけです。国会で障害者が議員になったことで、政府も動き始めました。目に見える形の障害に対してはそのように動くのが得策だと受け取るのは意地悪でしょうか。聞こえないということは、目に見える障害ではないだけに、気づかれないし、気づこうともしないようにすら見受けられます。無視してもあまり問題が起こらないことには、動こうとしないのが政治の論理だとすれば、教会の論理も歴史の中でそうだったように、政治の論理に則るようなことになりはしないかと危惧しています。
 
手話に対する理解を深めようと運動しているグループがあります。手話通訳者を育てようというほどの展開性をもつには厳しく、あくまでも手話とは何かを初めての人に体験してもらおうというような意味合いで、各地に出かけて行っているようです。頭が下がります。多くの人が手話というものに触れて、ろう者の生活や文化に関心をもてるようになるということは大切です。しかし、それに対して、牧師や伝道者の関心があまりないような気がしてならないのが残念に思えてなりません。毎回関係する牧師が短く聖書を説き明かし、その手話通訳を見るというような試みはありますが、多くの牧師は一回きりの関わりであるし、その会自身へ他の牧師が関心をもって集うというようなふうでもありません。もちろん多忙を極める中で出席しろと強要するようなものの言い方はしないつもりですが、要は関心の問題です。一部の信徒が願っているばかりで、教会を運営する側の牧師や役員が、手話やろう者ということについて殆ど関心を寄せていない、また知ろうともしないという現状をまざまざと表しているような気がするのですが、僻んだ見方でありましょうか。
 
戻りますが、キリストは、口先だけで神や善行を説き、自分はそれをやっているつもりになり、そのように行動できない人々を見下し、その人々の幸せのために活動しようなどとは決してしなかったたエリートたちと対決しました。彼らを偽善者と呼び、自らは、社会から疎外された少数者のためにできる道を進みました。そのため彼らはキリストを邪魔者と見なし、十字架につけました。彼らというのが誰のことであるかは、聖書をお読みの方は皆お分かりのはずです。多くの健全な方々は、私がまたこうして長いウザい文章を書いても、たとえ目にしても邪魔者と見なすようなことをする――それは自分をキリストだと自惚れているのではないつもりです――のかもしれません。私もまた気づかないままに人を排除していることを恐れます。必ずやそれは大量にあるのに、自分にだけは見えていないのです。
 
しかし、私なりに、気づいていることについては、提言します。手話通訳ということがどんなことか、知ってください。そうすることで、それを必要としている人々がどんな思いをしているか、理解しようとしてください。いまは、小学四年生で、こうした人々と触れあう学習を子どもたちは経験しています。教室で私はそうした点で尋ねることがあります。すると、子どもたちは、実によく障害者について理解をしているし、何の差別感覚も、また違和感ももたず、たいへん親和的に考えてくれていることを知ります。その点、大人のほうが遅れています。年齢を重ねた人のほうが、こびりついた差別感覚を拭うことができません。表向き、口では美しいことを言いますが、実のところ、無理解だし無関心です。それがあの「令和」発表にも現れていました。私は、教会も同じだと見ています。もちろん、私がいつも礼拝に出ている会堂の教会では、このことをよく理解して戴いていますし、協力をしてくださいます。このような理解が、拡がって戴きたいと思うのです。誰をも排除せず、偽善的にならず、すべての人に福音を伝えるということのためにも、ぜひ。
 
 
追伸。イヤホンで結構な音量で音楽を長時間聞いている人は、将来難聴になる危険性が非常に高いとWHOも発表しています。将来、音が聞こえ難くなる人が急増することが予想されます。そのような世の中になったときに、私の言っていることが、少しは実感を伴って分かって戴けるようになるかもしれません。悲しいことですが。ろう者の中で手話を使う人も実はそうたくさんではありません。まして難聴者で手話を使うということならもっと少なくなるでしょう。事は手話だけの問題ではありません。音声に頼る生活のあり方が実は限定されたものであるということを、もっと表に出して検討する時代が来ていると思われます。ただでさえ、教会で高齢化が激しいとなると、実際礼拝説教でさえ、聞こえていない情況があるものと思われます(これは私も多数そういう方々を知っています)。語る方が、実は聞こえていない人々に向けて毎週熱心に語りかけているというのは、決して空想話でもないし、笑い話でもないのです。




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