神がいるならどうしてこんな
2019年8月2日
神がいるならどうしてこんな悲惨がことが起こるのだ。この問いは、かつてあり、いまもあり、将来もあるでしょう。これに対して神を弁護しようとする説明のことを、神義論などといいます。誠実かもしれませんが、余計なお世話かもしれません。私は、このことについて神を助けようなどという気持ちはありません。そんな必要はないでしょうし、私がすること、できることでもないからです。
私がこのことを口に出すとしたら、それは結局、自分が神に従いたくないことの表明であるのだと思います。この神に従うのが嫌だから、それを正当化するためにそんなことを言い出すだろうと思うのです。ふだんは神の「か」の字も口に出さないくせに、悲惨な事態を目撃したら、それみろと言わんばかりに、突如として「神」とやらを持ち出して、自分が正しいと吹聴したいのではないか、と。
少し思考実験をします。旧約聖書がどうして私たちに与えられているのでしょうか。新約聖書ができた時点で、旧約聖書は使わなくてもよかったはずです。いえ、キリストは旧約聖書の成就の姿ですから、キリストの根拠として必要だった、とよく言われます。それはそうでしょう。これもまた、歴史を後から意味づけることにほかならないだけで、何かの言い訳めいた説明のようにも聞こえます。ひとつのいかにも正解のような説明で尽くされるような理由ではなしに、とにかく、旧約聖書は残ったのです。
私たちは、旧約聖書を通じてもまた、神を知る――神と出会う――ことができます。すると、たとえばこんなことを考えさせられます。神に選ばれたともされ、神を信じる民イスラエルが、その神の住まいエルサレムの完全瓦解を見、殺戮の嵐に遭って後、どうしたでしょうか。戦いに敗れた神は神でないから消滅する、というのが常識だった古代社会の神々と同じでしたら、主なる神は見捨てられたでしょう。どうしてわが民を勝利させることができなかったのか、と。全能の神とは違うのか、と。
ところが、イスラエルの民は、そうはしませんでした。彼らは神を信じたのです。この神の名の下に戦いに敗れ、自分たちが国を失い、離散し、神殿が破壊されたのは、すべて自分たちの不信仰の故である、と。神は正しいが、私たちが間違っていたために、このようなことが起きた。さあ、いまひとたび私たちは神に立ち帰ろうではないか……。
悪かったのは自分たちである、というところから、不死鳥のように再出発したのです。いえ、そう考えたからこそ、再出発できたのです。
神がいるならどうしてこんな悲惨なことが起きるのだ、と一番言いたかったのは、歴史の中のイスラエルではないでしょうか。さらにその後、ローマ帝国に完膚無きまでに叩かれ、完全にカナンの地を捨てなければならず、そのようにして二千年近くにわたり、約束の国ではないところで散り散りになって生き延びていたユダヤ人は、その信仰を絶やすことなく伝え、その上ナチスに何百万もの命を酷く奪われたにも関わらず、なおかつ国と信仰を立て直して再出発しました。傍から見れば、驚異としか言いようのないものでしたが、彼らからすれば、神の計画の成就であり、神を求めて信じてきたが故の当然の帰結でした。
神がいるならどうしてこんな悲惨なことが放置されるのか。誤解なさらないように。この問いの真摯さを疑うつもりはありません。理不尽な苦しみの中で顔を上げることもできない人が、こう呟いたことを悪く言うつもりは全くありません。そう叫びながらも、なお神を見上げ神に従おうとする人がたくさんいます。その信仰の強さに敬服します。
神が存在しないという結論を得て満足したいタイプの人が、神がいるならどうしてこんな……と持ち出すことについて、それはないよ、と抵抗しているのです。また、いまや世界中からリアルタイムにも飛び込んでくるニュース報道を見つつ、そんなふうに呟くことについて、違うんじゃないかな、と胸を打って言葉をこぼしたいわけです。自分を安全なところに置いて、まるで映画の中の出来事のように、辛酸を舐めている人のことを傍観しながら口にするセリフではない、と言いたかったのです。
とくに、クリスチャンと名のる人の中に、聖書を読んでいて優越感を覚えるようになり、イスラエルの民の不信仰を嗤うケースが実際見られることについては、常々悲しい思いを懐きます。かの記事の中で民が受けた痛手に比べたら、私の辛さなど、本当に何でもないと言えるようになるはずだ、そのように、自分に対して言ってやりたい気がします。しかしなお、その問いに対して傍観者として雄弁に語る自分がいたら、殴りつけてやりたい、と思うのです。