アイドル考

2019年7月29日

会いに行けるアイドルという触れ込みで、新しい形のアイドルが現れてもうずいぶんたちます。48や46などの数字を付けたグループ同士が競い合い、多くの才能ある若者を発掘してきたと思われます。もちろん、それに類する別のグループも、メジャー・マイナーたくさん生まれました。
 
ファンが近づけるということは、逆にリスクも伴うことになり、実際ファンを装った男に斬りつけられて重症を負うという事件もありました。また、その事件を一つのモチーフとして、少女マンガ雑誌『りぼん』には、問題作「さよならミニスカート」が連載され、珍しく一般のマスコミにも大きな話題を提供しました。乙女チックで一世を風靡した『りぼん』からすれば、この掲載は大英断でした。7月現在休載中ですが、物語はいまなお展開中です。
 
かつて歌謡曲というジャンルの中で多く生まれたアイドル歌手を思い起こします。いまでいう「推し」のようなファンが各歌手にいて、女性アイドルの歌に対して男性ファンが、黄色ならず黒い(?)声で応援していたものでした。あの頃の女性アイドル歌手にはたいてい男性ファンという図式がありました。いまの女性アイドルグループには女性ファンが多いように見えます。ともかく、アイドルはなんてったって若いファンの夢であり、時に憧れのすべてでした。
 
ここでふと、アイドル(idol)という言葉の由来に目を移します。ラテン語のイドラ(idola)の、本来「イ」であるところを、英語の訛りのような「アイ」と読んでしまったのが「アイドル」といったところです。
 
フランシスコ・ベーコンは、イギリス経験論の代表的な哲学者であり政治家であるわけですが、知識が経験に基づくものとする考え方の展開の中で、実験や観察の中から自然についての法則性を見出す「帰納法」を提唱します。しかし、注意すべきことがあります。その観察に際して、人間にはどうしても先入見というものがあって、帰納的な結論をもたらす過程に、錯誤が生じやすい危険性を伴うことになりがちなのです。ベーコンは、その誤りの原因を予め知ることで、錯誤を犯さなくて済むようにできるのではないかと考えました。
 
主著『ノヴム・オルガヌム』の中でベーコンは、人間には4つのイドラがあることを指摘します。
 
1 種族のイドラ・その根拠を人間性そのものに、人間という種族または類そのものにもっている錯誤・偏見。
2 洞窟のイドラ・各人に固有の特殊な本性によることもあり、自分のうけた教育と他人との交わりによることもある錯誤・偏見。
3 市場のイドラ・人類相互の接触と交際から生ずる錯誤・偏見。
4 劇場のイドラ・哲学のさまざまな学説から、そしてまた証明のまちがった法則から人びとの心にはいってきた錯誤・偏見。
 
私は個人的に、聖書の解釈や学説、時に釈義というものの中に、これらが混じっていることがあるような気がしてならず、いま一度学者もまた信徒も、この4つのイドラについては注目する価値が十分にあるのではないかと考えています。
 
ラテン語のイドラは、一般に「偶像」と訳される言葉です。人間はたくさんの偶像に惹かれる危険性をつねに伴って思考しているものなのです。聖書の神は、厳しく偶像を拝してはならぬと戒め、偶像になびいていく民を預言者は度々批判しています。こうした精神的な営みにおける偶像もあるくらいですから、そもそも偶像を拝むという行為の背景には、人間に染みついた何らかの性質や傾向性があるのかもしれません。
 
歌って踊るアイドルもまた、アイドルすなわちイドラ、偶像と呼ばれています。この偶像は、多くの人の心を惹き、またそのファンに応えます。営業的反応で思わせぶりなことも言ったりしますが、ファンもどこかそれを了承済みです。中には、自分だけを愛していると言ってくれた、と妄想に走り、その思いが傷つけられると暴力に及ぶということがありうるわけですが、だから偶像が本当に自分だけを愛してくれるなどということを本気にしてはならない、という不文律が元来あるものなのです。
 
偶像は、それなりの場を形成するために営業し、ファンの心を掴み、またファンもそれは自分だけのための笑顔や歌ではないことを理解しています。もちろん、聖書に描かれる多種多様な偶像がそうだったことでしょう。本気で偶像が自分を助けてくれるという信じ方をしないのが偶像だったのではないか、という気もします。私たちの身の回りに見られるなんとか信仰もそうです。宗教には深入りするなというのはそういうことです。博多風に言うと、「のぼせあがったらいかん」わけです。
 
しかしもしかすると、神殿祭儀も、律法至上主義も、このような関係のものであったかもしれません。少なくとも、そのように見られる部分もあったのではないか、と。偶像は、その人のために自らを犠牲にするようなことをしません。一般的に人々に犠牲を要求はしても、個人的に感情を許すようなことはありません。このような構図を考えてくると、戦争に促す思想でもなんでも、偶像という概念の中で捉えることが可能になってくるような気がしてきます。
 
アイドルはあなたと個人的には接しない。しかし、偶像でないものはそうではない。イエス・キリストはあなたに個人的に接しました。あなたを個人的に愛し、個人的に救いました。生身が傷ついてもなお、あなたに特別な関係を結ぼうと努めました。まさに身を裂いて、それを成し遂げました。これは偶像にはできないことです。
 
だからまた私たちも、偶像に対するように、イエス・キリストに対するようであってはなりません。どうせ振り向いてくれない、といじける必要もなく、本気で自分を助けてくれるという信じ方をしてよいお方です。応援する自分の姿にどこか惚れてしまうようなファンではなく、誠心誠意の関係で結びつく、キリストと私であるはずなのです。



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