【メッセージ】サインの解読

2019年7月28日

(創世記40:1-23)

「解き明かしは神がなさることではありませんか。
 どうかわたしに話してみてください」(創世記40:8)
 
「なんかいいことあった?」とか、けっこう声かけてんのにさ、アイツ、「オレ、そんなにニヤニヤしてたか?」だってさ。鈍感なんだー。と女の子。
 
あらあら、それだけ女の子からしっかり見られてるってことは、男の子のほうも、好きのサインだってこと、気づいてあげなよ。こういうのは、後から気づくこともありますね。ついにコクられたとき、以前あんな目で自分を見つめていたのは、やっぱり、だなどと。
 
悪いサインもあります。子どもが怪我してそのわけを言わないとか、文房具がやたらなくなって新しいのを買うとか、いじめのサインにも気づいてあげないといけないのですが、気づいたその後の対処も難しいことがあるかもしれません。
 
悪いついでに、動物の行動に異変があると、それは地震のサインだということもあるし、異常気象が自然のバランスの大きな崩れのサインかもしれないというのも、深刻な話題です。私たちは、それらをよく「兆候」と呼んでいます。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか」(マタイ16:2-3)というように、ユダヤにも天候の諺があり、人間は何かの兆候を知って、先のことを予測するという知恵を必要とし、また役立ててきたと言えるでしょう。
 
そのサインは、自分から要求するということもあります。ゲン担ぎというやつです。勝負前にはトンカツを食べる、ということはよくあるでしょう。連勝中はヒゲを剃らないといった力士もよくいます。相手が迷惑かもしれませんけれど。これは自分からあることをして運を呼び込もうと企むわけです。
 
もう少し弱く、何かのサインに委ねるということもあります。ジャンケンをする前に、握り組んだ手を裏から覗いて、見える光の形でグー・チョキ・パーのどれを出すかを占ったことはありませんか。次の角を曲がったときにすれ違った人が女の人だったら、今日は彼女に告白するぞ、みたいに自分の行動を委ねることも、けっこうあるんじゃないでしょうか。
 
クリスチャンが神に祈るときにも、これに似たことを案外考えるものです。神さま、こたえてください、と願うとき、何らかの「しるし」を求めるのです。ギデオンが士師として召されたとき、そんな大それた役に自分がなれるという自信がなかったので、神に「しるし」を求めます。「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば、お告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます」(士師6:36-37)と言ったばかりか、その通りに神がしてくれても、今度はもっと難しく、「もう一度だけ羊の毛で試すのを許し、羊の毛だけが乾いていて、土には一面露が置かれているようにしてください」(士師6:39)という「しるし」を求めますが、その通りになったことで、まあ観念したという記事があります。
 
ヤコブの十二人の息子のひとり、ヨセフは、兄たちが自分にひれ伏すような夢を見ました、というように無邪気に自分見た夢を語り、憎まれました。そのために荒れ野で兄たちに殺されそうになりますが、その経緯の中で、商人に売られてしまい、そのままエジプトに連れて行かれます。才能豊かなヨセフは、エジプトで奴隷としての身分ではありましたが、家の管理を任され、新たな人生についてよいスタートをきることができました。けれどもそれも束の間、主人の妻に誘惑され、断り続けたヨセフは、その妻の機嫌を損ね、濡れ衣を着せられて侍従長の家にある牢に入れられてしまいました。尤も、牢の中でもヨセフはその才覚を認められ、リーダーとして優遇されたという、神の計らいがあり、物語を辿る私たちも少しほっとしたのでした。
 
今回はこの続きからです。ヨセフがとりまとめている牢の囚人に、新たに二人増えました。同じ事件によってでしたが、王の給仕役のチーフと料理役のチーフでした。その事件については創世記は沈黙していますが、とにかく王の怒りを買ったのでした。
 
その二人が、ある晩に不思議な夢を見ました。夢は、ヨセフの場合もそうでしたが、古代の人々にとり、神からのメッセージだと考えられていました。平安時代の日本では、夢に好きな人が出ると、その人から思われているのだ、と信じられていたといいます。フロイトは、夢判断の本を著し、人間の潜在的な意識に何があるかを分析しようとしましたので、現代人も案外似たようなレベルで夢について考えるところがあるのかもしれません。
 
そもそも二人は、人生が狂わされたばかりでした。パウロもそうでしたが、牢に入れられたということは、一応命を奪われることを覚悟するということです。そこへ、神のお告げと人が信ずる夢を、それも明確に覚えており、意味深長な夢を見たので、ふさぎ込んでいたと記事は記します。
 
ヨセフは、憂鬱な顔だと詩的しました。二人は、夢を見たが意味が分からないと答えます。これを、「夢を解き明かしてくれる人がいない」という言葉で表します。これに対してヨセフは、「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」と言い、二人の夢の意味をヨセフが解読することになります。しかし不思議です。解き明かしは神がするというのに、ヨセフに話せとは。恐らくヨセフは、一種の預言の立場にあるのでしょう。ヨセフ自身が慢心して神になろうとするのでなく、ヨセフを通して神が働いて語るという役割を担っているのだ、という自覚が発する言葉であったのではないかと考えます。ヨセフの解読によると、夢に出てくる数が日数を表し、その夢が二人の運命を大きく変えるという結論でした。そしてヨセフが解明したとおりに、給仕役のチーフは現場に復帰し、料理役のチーフは処刑されました。ヨセフは給仕役のチーフに、あなたが牢から出たら私ヨセフのことを王に取り計らってここから出られるようにしてほしい、と頼んでいました。ヨセフは期待したことでしょう。けれども、そのことはすっかり忘れ去られてしまい、ヨセフは依然牢の中で暮らすこととなります。
 
確かにこの夢は、これからの出来事を告げるサインでした。しかし、そのサインは、解読されなければただの夢でした。ここではヨセフが、それを解読する者として役立つことになります。あるいは、ヨセフが役立てられるように、夢というサインを神が準備したと考えることもできます。パウロが異言と預言について長々と触れている手紙がありますが、何らかの解き明かす人がいなければ無意味である異言よりも、誰の心にも伝わる預言を大切にしようと提言していました。この場合預言は、今で言う説教のようなものとして理解することも可能です。異言とは何か、とするとまたそれだけで大変な騒ぎになるのですが、ここでは、解き明かしを必要とするものという意味で、この夢に匹敵するような構図になっていると見ておくことにしましょう。誰に対しても明晰であるわけではない、神からのサイン、それはヨセフという、選ばれた特異な人物により解読されることとなりました。
 
私たちが神に向き合い祈るとき、「しるし」を与えてほしいと願う場合があることに先ほど触れました。しかしその「しるし」は、そんなに簡単に解読されるものではないのです。かつて、空中に浮かんだ男の写真をばらまき、それが修行した結果できるようになった超能力だと宣伝した宗教団体がありました。この写真に、科学者や技術者、弁護士などの優秀な才能をもつ若者が次々と群がり、マインド・コントロールされてついには世界征服の野望のもとに数々の殺人や大量殺人のテロ行為を実行していきました。なんと安易に、サインを解読してしまったものでしょう。あまりに簡単に詐欺に引っかかり、魂を抜かれてしまったのです。
 
へたをすると、私たちクリスチャンも、そのような甘い解読の声に吸い寄せられることがあります。異端と呼ばれているグループは、決まってそのような解読を信じこんでしまっています。そして、自分たちの聖書解読だけが真理であり、他の考え方は間違っている、というような言い方に走ります。そして、それは自称正統派であるクリスチャンが決めつけた異端だけのことではない、というところを押さえて戴きたいと強く願います。もう殊更に例を挙げることはしませんが、キリスト教会が誰かを裁いたり、ファリサイ派のような振る舞いに出たりするのは、やはり決まって、このようなサインの解読を安易にやってしまった場合ではないか、と問いかけたいのです。
 
誰もがヨセフになれるわけではありません。誰もがヨセフほどの波乱に富んだ人生を強いられているわけでもありません。私たちは、聖餐や洗礼の意味ひとつとっても、誰ひとり決定版の考えを見出してはいないのです。イエスの十字架と復活についても、およそのところは意見が一致しているにせよ、細かな理解では意見の相違があります。十字架というサインについての解読ですら、一意に決定されていないのです。
 
それは、確かなものがない、という意味ではありません。誰もがヨセフにはなれませんが、誰もがイエスに愛された一人ひとりです。主イエスは、一人ひとりそれぞれと出会い、言葉を与え、力を及ぼし、報いを備えてくださっています。あらゆるサインについて、イエスは解読しているはずです。それと同じことを私たちができるように傲慢になってはいけません。ただ私たちは、イエスの言葉をシェアしていますから、そのサインに従って行動することはできます。深い意味を知り尽くしたなどと考える必要はありません。単純に愚直に、イエスの言葉を真正面から受け止めて、自分と神との関係の中で、そのサインを理解して自分の人生としていくことは、きっとできるのです。他人の人生でなくていい。主よこの人は、と問う必要はありません。主よ私は、これだけで十分です。どうか主のサインをできるだけ見逃すことがないように、目を覚ましていることができますように。



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