【聖書の基本】弱いときにこそ強い
2019年7月28日
シェークスピアの「間違いの喜劇(The Comedy of Errors)」を原作として、高橋康也氏が作り、野村萬斎氏が演出した作品で、「まちがいの狂言」というものがあります。Eテレの「にほんごであそぼ」で、野村萬斎と子どもたちがこれを唱えるのを、以前毎日楽しみに見ていました。生き別れになった双子にまつわる狂言ですが、「ややこしや ややこしや」と聞けば覚えておられる方もいらっしゃることでしょう。「わたしがそなたで そなたがわたし そも わたしとは なんじゃいな」ともちかけ、「うそがまことで まことがうそか」と閉じられる問いの周辺を、ひたすら「ややこしや ややこしや」が包むというセリフです。
中世の神学原理に基づく学問から、ヨーロッパでギリシア・ローマの文化への注目が始まったルネサンス期、ニコラウス・クザーヌスという枢機卿がドイツにいました。同時に彼は哲学者でもあり、『知ある無知(De docta ignorantia)』という本を著し、その中で「反対の一致(coincidentia oppositorum)」という考え方を主張しました。神はあらゆる対立や矛盾を超えており、人間の目に映る反対・対立も実は統一的な存在である、と言いました。
一見反対のことのように思われても、深く考えるとそれらはひとつのことに過ぎない、このような考え方は、後にヘーゲルの有名な弁証法という考え方で、対立を超えたひとつ上のレベルでの考え方へと止揚されるという原理が用いられ、世界がそのように展開していくのだと説明されるようになった、とも言えます。
対立する概念がそこにあるとき、学的判断はそれをどうしても「分ける」ということに終始しがちです。判断とはそもそも分けるという意味に基づくからです。しかし、表裏一体というような考え方にも馴染み、また禅問答も一種の文化的背景に有する日本人ならば、案外反対の一致という考え方も、そうそう不思議なものには見えないかもしれません。「まちがいの狂言」として笑い飛ばすくらいですから、案外、ややこしく感じないかもしれませんね。
さて、パウロは「わたしは弱いときにこそ強い」(コリント二12:10)と言い、自分の弱さや不遇、弱点をむしろ誇るのだと手紙に書きました。そこにこそキリストの力が現れるのだから、と。
ギリシア思想を背景にしているなら、明晰な論理や判断をも重んじた可能性が高く、弱さと強さとが互いに対立したことを認めた上で、なおかつ一致を見るというふうであったかもしれません。しかしまた、形式論理にこだわらないとすれば、弱さと強さはもはや対立ですらないというように、クザーヌスばりの視点から捉えていたのかもしれません。表現上だけを見ると、ひとつのパラドクスでありますが、「わたしは弱いときにこそ強い」がどういう視点であったかは、推測の域を出ないかもしれません。
原文では、「弱い」の主語の「私は」は語としては表されていません。これはギリシア語は普通のことで、むしろ「私は」を持ち出すと、「私パウロは……」というようにえらく強調しているふうに聞こえる場合があります。この「弱い」と日本語では形容詞で訳さざるをえないかもしれませんが、ギリシア語では動詞です。ですから「弱る」のように訳したほうがニュアンスは近いかもしれません。「弱る時」あるいは「弱る時は必ず」というような響きに続いて、「そのときには強くある」というような語が並びます。「こそ」という日本語がどうしても必要なのかどうか、私には分かりません。「強い」は今度は形容詞です。力を意味するダイナミックとカタカナで書く語に関係します。最後に「私は・である」という動詞で結ばれていますが、これは「ある」という特別な動詞で、神の顕現の際にも使われる語です。日本語だと「強いのであーる」のように響いたら少し雰囲気が出るかしら。「弱っているとき、そのとききっと私は力強いのであーる」からだ、というと、必ずしも表面上は「弱い」と「強い」が矛盾しているようには見えませんから、パウロの中では微妙な「ずらし」があったのかもしれません。つまり、まともに対立概念をぶつけているのではなく、パウロの中ではパラドクスでも何でもない、ごくごく当たり前の論理であった、などというように。
弱い「けれども実は」強いのか、弱い「からこそ」強いのか、そこは受け取る人の気持ちによるのかもしれません。また、その人の置かれた情況で見出せばよいことなのかもしれません。パウロがパウロの立場で受けた意味がどうであれ、パウロが神から恵みを受けたという点に注目するならば、そのような恵みを、私たちはパウロとは別の形で受け止めることも可能ではないかと思います。
ひとは、弱さに苛まれます。そこに神が共にいると信じるならば、立ち上がれます。勇気を与えられたならば、パウロはパウロでどうであったにせよ、神はいまそのひとに、特別に取りはからってくれることを信じます。同じ神を、同じイエス・キリストを仰いでいるのですから。