選挙と神の恵み
2019年7月27日
今週初め、参議院議員選挙が行われました。当日にかけて新聞各社説などは、「選挙に行こう」とさかんに呼びかけていました。正論だと思います。
でも、どうしてそんなに呼びかけなければならなかったのでしょう。面倒くさい、自分の一票くらい何の力もない、政治は変わらない、よく分からない、いろいろな理由が投げ出されることでしょう。もちろん、投票したくても投票権がないようにされている立場の人や、法的な援助がなく投票の機会を逸しているという人もいるのですが、ここでは、投票権が与えられていながら意図的に投票をしないという人について考えます。できれば、新聞社の呼びかけとは違う形で。
もちろん、選挙制度に批判的な人もいます。もともと歪んだ制度の中で投票に行こうというキャンペーンに誘われることに嫌悪感を抱く人もいることでしょう。そのポリシーについてとやかく言うつもりはありません。ただここでは、現実を動かすひとつの力が実際にあるというところに着目して、一市民として選挙という制度の中で考えようとしています。
その際、選挙権は、歴史上の先人たちが、文字通り血を流して勝ち取ったものだと捉えます。私たちは生まれながらにして、それを空気のように当たり前のものとして与えられていましたから、その経緯については無頓着ですが、その誕生には多くの犠牲がありました。
学生の皆さんならば知っています。自分が友だちと一緒に飲んだそのタピオカが、親がスーパーのレジで何百という商品を捌いてようやく得られた給料の賜物であるということを。自分で代償を払って得たものではない価値あるものが、無条件のように与えられているわけです。
クリスチャンですら、しばしば忘れます。いまこうして生かされている自分が、キリストのまさにその血、その命と引き換えに立つことができているということを。
新約聖書の書簡は、これを想起するように、必死で何度も叫んでいるように思われてきます。与えられた恵みを無にするな。それがどのような尊い犠牲の上にもたらされたプレゼントであるのかを思い起こせ。美しく飾って訳される聖書の言葉ですが、とくにパウロは感情をむき出しにして、そうした悲痛な叫びをぶつけているような気がしてなりません。
私は選挙については、一度も棄権したことがありません。それぞれの判断が適切であったかどうかは分かりませんが、神に与えられた恵みを無にするようなことは、どうしてもできないと自らを戒めたのです。もちろん、日々、それを無にするような情けない暮らしをしてばかりですが、それでも、気づいたことは少しでも、と。