天秤ばかりの知恵
2019年7月21日
重量を量る計量器。デジタルは使いやすいし、正確な数字が表示され、目盛を読む必要もなく、便利です。その機械の許容範囲であれば、軽いものから重いものまで計量可能です。
ただ、電源が必要ですから、そのエネルギー源が供給されないと、計量できなくなります。また、何かしら故障が生じると、全く使い物にならなくなります。
天秤ばかりというものがあります。理科実験室にあるような、中央に支点のある天秤であると、細かなところまで計量できますが、あまり重いもの、大きなものはできません。
大きな天秤ばかりがあります。昔、物売りの人が使っていた、竿秤、お分かりでしょうか。あれは便利です。小学生の「てこ」の学習でも紹介しますが、一定の錘(「おもり」と読みます。「重り」と書くのは誤りです。入試で書かないように)を用意しておくと、かなりの幅の重量を量ることができます。
支点の位置を替えることにより、たとえひとつの錘でも、自在に多くの重量を計測できるのです。てこの原理を思い起こしてくだされば結構です。
支点は私たち自身です。通常の天秤のように私が頑として動かないときは、何かを量る錘などの基準も、自分の決めた数値で、狭い範囲で決めた結果としてしか捉えられません。私はどこに立ってものを見ているでしょう。世界を見ているでしょう。私が世界の中心で、そこから見える景色に従ってのみ判断するなら、そしてまた他人を裁くならば、実は限られた自分からの価値観だけで物事を決めていることになりかねません。
しかし竿秤の知恵は、支点を動かすことにあります。支点の場所を替えることによって、同じように存在する錘でも、様々な重さを適切に量りとることができます。いままで見えていなかった角度から、様々な距離感を伴って、世界を新たな眼差しで認識できる可能性が与えられます。
神の視点は、絶対的なものかもしれません。しかし、私たち人間は絶対者ではありません。どこまでも相対的な存在です。自分の目から見えるものを絶対的なものと決めつけないで、支点としての自分を柔軟に移動させることを試みるのは如何でしょう。
もちろん、それはいつまでもどっちつかずにふらふらと迷うという意味ではありません。支点を上から吊し支えている神の手を信頼し、神とのつながりを一定に保つ中で、世界を見る眼差しの視点の変化を認めることで、それまで見えていなかった新しい風景が、見えてくるかもしれません。
いつも、そのような新鮮な気持ちでいられること、そこにひとつの「自由」を感じます