そのクリスマス、必要ですか

2019年7月19日

「昔からそうしてきたから、今回もそうしましょう」
 
これは世の中で、ありがちな態度です。さしあたりそのようにすれば、人は安心なのです。もしも変革して、失敗したら自分の責任になります。これまでのようにしておけば、責任を取らずに済むし、最も自然にうまく流れていく可能性が高いというのも、理由にあるかもしれません。
 
これがキリスト教会においても、そうだということを、まず自覚しておく必要がある、というのが今回の要点です。ひとつ、思い切った問題を投げかけてみましょう。
 
「去年までのようなクリスマス行事は必要ですか」
 
クリスマスをするな、と突如言っているわけではありません。去年と同じような、これまでやってきたような、クリスマスの一カ月、そしてその準備のための数カ月が本当に必要でしょうか、という問いかけです。
 
クリスマス商戦に命運をかける小売店に対抗するかのように、教会のクリスマスが凝ったもの、入念な計画を基に企画された派手なイベントへと盛り立てられ、エスカレートしていく傾向はありませんか。クリスマスに関する行事は増えるし、隠し芸大会のようなものも披露され、劇や歌に幾度も駆り出される人もいます。
 
信徒が疲弊していませんか。ただでさえ忙しい仕事を抱え、疲れを癒しに礼拝にと思っていても、そして年末の最も苛酷な労働を強いられているような社会人に、24日の夜を含め、各会のクリスマス会の企画運営、その他キリスト教団体の催しなどが12月にどっと続く、それでよいのでしょうか。そしてクリスマス礼拝の次あたりには、「あけましておめでとうございます」と教会で挨拶を交わすのです。クリスマスカードのやりとりはしなくても、年賀状は欠かさないという習慣を見るにつれ、あのクリスマスの騒ぎは何なのだろうと思うようになります。クリスチャンの間のジョークに「クリスマスはクルシミマス」というのはもう古典で誰も言わないほど当然のことになっているかのようです。
 
特に、プロテスタント教会に問いかけます。プロテスタントのモットーのひとつに、「聖書のみ」というのがありました。このクリスマス騒ぎは、聖書のどこに根拠をもっていますか。
 
もちろん、それに対する様々な説明や弁明のようなものは、それなりに知っています。理解しないわけではありません。その上で、問いかけるのです。現状の、よくあるクリスマスの祝い方は、聖書のどれに基づいているのか、と。
 
結局、ヨーロッパで定着してきた儀式や習慣を引き継いでいることばかりではないのでしょうか。ケルト文化や北欧文化の発祥、ローマ神話などに由来するものがあるでしょう。そもそも12月という時期が、聖書に何ら基づかないことは明白です。
 
エホバの証人がクリスマスを祝わないことは有名ですが、それに対してプロテスタントが反論をする力はないように私には見受けられます。どうでしょう。
 
もちろん、「聖書のみ」を原理として掲げないカトリックなどにしてみれば、ひとつの伝統であり、結構なことです。教会の伝統の中での荘厳な儀式をとやかく言う理由はありません。問題は、プロテスタント教会です。
 
ある時は「聖書のみ」と掲げながら、そうでない面を指摘されると、何やらまた理由を探して説明を施す。受肉は重要な信仰のポイントだから。伝道のために。これはクリスマスに限りません。つまりは原理というものが、人の側にあるかのようになっていないか、問い直す必要があると考えるのです。
 
「昔からそうしてきたから、今回もそうしましょう」
 
結局は、この理由によるのではないか、ということも自ら問い直してみましょう。さらに、どんどんショーアップして、派手な演出や試みが展開していく現状を見直す機会を設けないことには、人間は自己義認と共に暴走していく性質があります。
 
私は、もしかすると、聖書がキリストの生誕を定めなかったのは、いつでもどこでもキリストがひとの心に生まれるからではなかったか、とまで穿った見方をしたくなります。クリスマスの時期に信じましょう、キリストを心に迎え入れましょう、ではなくて、どこでも出会えるのがキリストであり、いつでも救われるというのがキリストの力ですから、クリスマスだけにこんなに力を注ぎ、多忙の中にまた今年も疲れてクリスマスが終わった、というような信徒がひとりもいないようにすることを、もっと真剣に考えてもよいのではないかと思うのです。
 
そんなことはない、みんな喜んで自ら奉仕している、と言えるでしょうか。クリスマスをこんなに教会の皆さんは喜んで盛り上げてくださっているのだ、と。いえ、互いにそのような虚像を幻のように見ているということはないでしょうか。つまり、皆が決めたことについて、また昔からなされていることについて、反対したい気持ちがあっても、とてもとてもそのようなことを許さない空気が、この国には文化というか、殆どDNAのように刷り込まれているということについて、正面切って考えたことがおありでしょうか。
 
『「空気」を読んでも従わない』という、岩波ジュニア新書が2019年4月に発行されました。その著者鴻上尚史氏が、中高生あたりをターゲットに書いていることは、大人も大いに参考になることのように思われます。
 
著者自身、へたをするとわがままとも取れるような生き方をしているように見られるかもしれない、そんな本でもあるように見受けられましたが、その主張は傾聴に値します。本書は「世間」と「社会」の違いで、日本と欧米とを比較しますそれはあまりにも単純だし、欧米がよい、との一辺倒に聞こえるかもしれません。しかし、これは若者への問いかけの本です。分かりやすくする方便としての比較対照に目くじらを立てる必要はありません。この「世間」の構造を明らかにし、この同調圧力と戦うためにはどうすればよいか、考察し提言していきます。
 
日本的「世間」に属する限り、ひとり逆らい違う意見を言うことは難しい。いじめはそこから起こることが多いし、それを避けるために仲間をつくるようになっている。つまりは以前からやってきたこと、皆が賛同することには抵抗できないような構造になっている、というのです。そしてそのような「世間」をもたない欧米の「社会」では、個人が意見を単独でも主張し、またそれを皆が検討したり受け容れたりするような構造になっている、と言います。
 
実はネタばらしになりかねないのですが、著者は、これらの違いを、一神教の信仰により説明しています。強い立場の人間になびかねばならない「世間」とは違い、強い神さまに支えられているから、ひとと違うことを言っても平気なのだ、とにかく神さまとの関係が問題なのだ、というのです。そして日本ではその神さまにあたるのが「世間」なのだ、と断言しています。
 
そんなに簡単に言えるのか、という反論は抑えてください。これは若者へのエールの本なのです。周りに合わせていかないといじめられるなど苦しい思いをしている若い人々へのアドバイスなのです。神学や文化原論ではありません。
 
だから、一神教の信仰をもつキリスト教会の一人ひとりが、これを受け止めてみませんか。誰かが待ったをかけてみませんか。教会の中でもこの日本教の神である「世間」が原理としてまかり通っており、「昔からそうしてきたから、今回もそうしましょう」を「おかしい」と思いながらも、無言で意見を控えている信徒は、実は少なくないはずです。教会でもいつしか「世間」が偶像になっていることに気づかないとすれば、それは大きな罪とならないでしょうか。
 
「世間」は、多様性を認めません。つまりは、神に創造された一人ひとりの魂を、教会内にはびこる「世間」という偶像に従わせるようなことをそれは狙っています。ひとつ、クリスマスというものを題材にして考えてみましたが、もちろんそれに尽きません。心あるひとは、ぜひ考えてくださいませんか。キリストを迎えるということはどういうことか、ゆっくりしみじみ味わう、あのひっそりと誰も知らないような隠れたところで産まれたという救い主の姿は何であったのかを信仰の目で見るためのような礼拝、そう「礼拝」であるひとときであってもよいのではありませんか。もしこの時期にキリストの誕生について黙想するように定めたとしても。また、そのときにはそもそも「クリスマス」という名称も、いらない、と考えてよいのかもしれません。
 
「クリスマス」という、もしかすると躁と鬱とを含みもつようなそのお祭りは、本当に必要ですか。


※「昔からそうしてきたから、今回もそうしましょう」なんてバカなことは言わないよ、と仰る人もいるでしょう。では入試制度の変化を適切に把握しているか、考えてみましょう。いま、入試制度と教育課程やその考え方が、大きく変化していることをご存じでしょうか。かつて共通一次試験がセンター試験に変わったとか、AO入試が始まったとか、そうした改革はありましたが、それなど比べものにならないくらい、2020年度を境に正式に大変革が起こることになっています。すでにそれは始まっています。福岡県の公立高校の入試問題は、長らくこういう形式でこういう雰囲気だというものは変わることがなかったのですが、近年、かつてとは一変した問題にがらりと変わっています。これは文部科学省がこのようにしろという命令を出しているからです。親がよく言うような、昔はこんなふうに勉強したとか、昔はどこどこ高校や大学には入りやすかったとか、大人が知っている常識は、もう通用しません。教育が大きく変わるということは、日本が大きく変わるということを意味します。ゆとり世代がどうとか、そのくらいのものではなくなると思います。「昔からそうしてきたから、今回もそうしましょう」を完全に脱却しないと、子どもの(学習)教育にはもう口出しできなくなっているのです。


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