【メッセージ】血染めの晴れ着

2019年7月14日

(創世記37:12-36)

兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。(創世記37:31)
 
弟のヨセフが生意気なのを、十人の兄たちは妬み、憎んでいました。ある時、兄たちが羊の群れを伴って野に出ているとき、父ヤコブはヨセフに、兄たちの様子を見てきてくれと頼みます。ヨセフは人づてに、兄たちのいる場所を知り、見つけることができました。ヨルダン川の西の山地を、さらに北に向かってずいぶんと歩いたことが分かります。
 
兄たちの目に、遠くからやってくるヨセフの姿が見えました。ここで兄たちは悪意を懐きます。「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」
 
しかし最年長のルベンが兄の権限でこれを止めます。「命まで取るのはよそう。血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない。」と、言うなれば優しい対処を命じます。しかし、ヨセフ自身を守ることはしませんでした。兄たちは、ヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取りました。父親からちやほやされて着せてもらったその晴れ着が、兄たちの妬みのひとつの対象でもあったのです。そして彼を穴に投げ込みます。もう自分の力でそこから出ることはできません。
 
ここで食事をしながら、ルベンの弟であるユダが、別の提言をします。兄に殺すなとは言われた。しかし何もしないではもったいないので、遠く東に見えたイシュマエル人の隊商がに売ってしまえば儲かるという提案をします。「弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」と殺すことには反対の意を示しました。
 
このあたりの詳細な情況は説明しづらいのですが、その間に穴の中のヨセフを見つけたのが、遊牧のミディアンの商人。人がいるぞと助けたというより、これを奴隷として売りさばけば儲かると考え、恐らく別のイシュマエル人に売って銀20枚を得ました。これは物語なので、兄たちが知る由もないシチュエーションです。
 
ルベンは、ユダのように、たとえ命を助けたとしても、ヨセフを売り飛ばすということには賛成しかねず、父ヤコブの許に戻したいと考えていました。それで穴のところにひとりで行きヨセフと会おうとするのですが、なんと予想と裏腹に、穴は空でした。心底嘆き、また兄弟たちのところに戻ります。ヨセフが穴にいないぞ、と。「わたしは、このわたしは、どうしたらいいのか」
 
何を相談したかは書かれず、もう暗黙のうちに事は運びます。ヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸します。野獣にでも食われたことにしておこう、と当初相談していたその通りの筋書きを、自分たちで捏造します。父ヤコブにその晴れ着を送り届け、「これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください」と使いに言わせました。
 
父は嘆きます。「あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ。」自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しむことになりました。いくら慰められても、「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」と言って泣き続けるのでした。
 
さて、なんとも後味の悪い物語の場面です。ヨセフは、ミディアン人の商人たちにより穴から引き上げられ、さらにイシュマエル人に売られ、エジプトに連れて行かれたのでした。兄たちは、このことを知りません。ただヨセフが行方不明になったことだけは確実です。そこでヨセフがいなくなったことを、父親に説明しなければならなくなりました。確かに、ヨセフの生死は不明です。しかし兄たちは、結果的に偽装することになりました。ヨセフの立派な晴れ着は先に自分たちが剥ぎ取って手にしています。これに動物の血を付けて、ヨセフが動物に襲われたかのように見せかけるのです。
 
これは、自分たちの責任を逃れようとするための、たぶんベストな方策でした。まずいのは、ヨセフが父の許に戻り現れたときだけです。兄たちのうち、多くはヨセフを殺してしまえと息巻いていました。ユダは、殺しても得にならないから売ってしまえ、と提言していました。命を取らないという意味では優しそうですが、自分の利益しか考えていないように見えます。ルベンは最も温情があり、長男として、ヨセフを父の許に帰そうと考えました。それで一旦穴に入れていわば匿うようにし、後でこっそり助け出す画策を練っていました。ところが後で見に行ってみるとヨセフの姿がその穴に見られないので、大いに嘆いたというわけです。ルベンは大変優しいと言えますが、それでも、この偽装工作に加わりました。この後、父ヤコブは嘆くこととなり、ずっとヨセフを死んだものとして過ごしていきますから、結局この偽装のことを兄弟の誰もがずっと貫いたことになります。ルベンでさえ、同じです。この、一見優しそうな、誠実そうなままで、嘘を貫くというのが、案外質が悪いものです。こういうのを偽善と呼び、イエスが敵視したとも考えられます。
 
このまずい事態は、自分のせいだとされたくない。都合良く無視するか、見ないふりをする、そんなことが私たちにもあるでしょう。時に、全く気づかないこともあります。先週、そうした問題を取り上げました。今週は、偽計を以て騙し通すことについて追及することになります。
 
まさか、そんなことは自分はしていない。――そうですか? 本当にそうですか?
 
自分はそのような偽りは全くしたことがない、していない、と言えるのでしょうか。もちろん私は、誰それの何という問題をここで暴こうとしているのではありません。ただ、よくよく考えてみられたいと申し上げるだけです。
 
ダビデは、預言者ナタンにより、「それはあなただ」と詰め寄られるまでは、しらを切っていました。というより、自分が罪の意識に苛まれることさえありませんでした。自分が女を見初め子を孕ませたためにその夫を汚い手を使って殺害したということを、もう過去のこととしていわば忘れていたのです。その、忘れたいとか忘れようとしていたとかいう心理は、私も理解できます。私たちは自分黒歴史をいちいち気にして毎日生きているわけではありません。できるならなかったことにしたいと思うことを、忘れて生きています。そしてそのことを忘れさせない出来事があったり人物が現れたりすると、そう、物語になるのです。
 
まさか、そんなことは自分はしていない。――そうですか?
 
ダビデほどの悪事はしていないと胸を張る方はいらっしゃるかもしれません。それでは、その「正しい」あなたが他人に告げた、追い詰める言葉、裁きの言葉が、ひとの心を突き刺して痛めつけているということも、全くないと言えますか。他人でもないあなたが、そう確信できますか。
 
そして、聖書をお読みの方、聖書に救われたと思っている方に申し上げます。「あなたが、イエスを殺したのですよね?」
 
キリスト教の歴史の中の過ちは、この問いに対して、まず「ユダヤ人が殺した」とするところから始まったのではないかと感じます。すでにそれは、聖書の文書が書かれた時代から、その文書の中に隠れていたと見ることも可能だ、というくらいに考えています。自分ではない、誰か他人がイエスを殺したのであって、自分がではない、ということを前提として、絶えず誰かを悪者にしてきた歴史がどこかに流れているのではないか、と考えるのです。
 
しかしいま、この兄たちのしたことをもう一度見ましょう。偽装ではありますが、兄たちはヨセフの晴れ着に動物の血を染めました。動物の血というのは、イスラエルではいけにえであり、罪の赦しのために犠牲にされることを指すものでした。動物たちは、毎年、毎日のように殺されます。その都度、ひとは心にある神からの背きの性質とそこから生じる悪しき行いを悔改めて、神に戻りますが、またそれは繰り返し起こります。ひとの本性に巣くう、神に敵する性質は消えることがありません。それを、イエスは一回きりの献げものとして身を刺しだし刑死を成し遂げましたため、罪の証書は無効という扱いにしてもらえたという理解があろうかと思います。神の栄光に輝く衣、すなわち晴れ着は、血に染まりました。その肉は突き刺され、ぼろぼろにされて棄てられました。
 
兄たちが偽装した動物の血は、この物語では偽りの血でした。しかし、イエスの血は本物です。ルベンのような誠意ある対応がそこにあっても、結果的に偽りに加担していました。しかしイエスは偽りませんでした。
 
あまりにあけすけに自分の背きを発表しなければならない、などと偉そうなことは申しません。人間関係を壊すことにもなりかねません。ひとは不完全ですから、たとえ神に赦されましたとして自分の見にくいところを口に出して言えたとしても、それを聞いた人間は落ち着いていられなくなります。聞いた人を苦しめないためにも、すべてを人に知らせなくてもよい場合があるでしょう。
 
しかし、神の前には明らかにしなければなりません。だから、取りつくろわなくてよいのです。怖がる必要はありません。忘れる必要はありません。偽らないで、神の前に、自分の心底醜いところ、自分では許せないようなところを、差し出しましょう。イエスの血の前に出るのです。これ以上の、赦す権威と力のあるものはないのです。
 
ヨセフは生きているのに、死んだものとして偽ったのが兄たちのしたことでした。イエスも十字架で死んだものとされましたが、確かに生きています。生きているから、あなたと出会い、あなたを生かすことができるのです。イエスは偽る方ではなく、真実なお方です。イエスは生きています。だからあなたを生かします。
 
今日は、そのことだけをお伝えしたいと思いました。



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