いてくれてありがとう

2019年7月11日

2カ月に一度、熊本地震に見舞われた益城町の仮設住宅にある集会所へ、カフェという語らいの場をつくる営みに参加させて戴いています。今週が7月のその時でした。折しも先に豪雨が九州南部を襲い、益城町も、水害について今年から適用された警戒レベルにおいて、警戒レベル4が発令されました。これは、避難指示に匹敵し、すぐに避難する必要があるという判断が下されたときのものです。
 
私たちは、氾濫したという木山川を確認して現地に向かうことにしました。さすがにもう川の水は平常に戻っていましたが、明らかに氾濫して壊れた堤防を補強している土嚢やブルーシートが何カ所も見られました。豪雨の威力が偲ばれました。しかし、仮設住宅の場所は無事で何よりでした。地震から三年を過ぎてなお仮設住宅にお住まいのご高齢の方々、不自由も多いことでしょうし、また夏冬の気候の変化の厳しい風土、お体にも難が多々あるかとは思いますが、まずはお元気なお姿に胸を撫で下ろしました。
 
今回は特別ゲストがありました。東京から、ソプラノ歌手が来てくれるというので、予めその旨宣伝しておきました。今回は私が案内チラシを作成し、他の方に配布したり、また集会所に掲示したりしてもらいました。結果的に、これを見て関心をもってくれた人もいました。このカフェに来る人は、だいたいレギュラー化しており、決まった方が集まってくださるのが通例でしたが、今回は初めてという方がいて、またその方が連絡して別の方を誘うなどというように、輪が少しですが拡がるのを感じました。やはり歌手というのはひとつ魅力だったのかもしれません。ポスターを見て来たよ、という話が、皆さんの口からも零れていました。
 
なんといってもそのステージのタイトルが、心を惹いたのではないか、と密かに私は思います。
 
「いてくれてありがとう」
 
もう私など、これを最初に聞いたときから涙が出ていたのですが、これはこの歌手のひとつのテーマであるのだと思います。
 
東京にお住まいですが、出身は鳥取。音楽の教育と訓練を受けたすばらしい経歴をおもちの上、キリスト教信仰があり、今はある有名な牧師の教会に属しているとのことです。その名前を聞いたとき、私は思わず「あっ」と声を漏らしてしまいました。私が聴いていたFEBCの番組で、楽しいトークをしていた牧師の名だったのです。そのトークは、これまた有名なゴスペル歌手で、賛美を通して積極的な活動をいまなお続けています。SNSでよいお交わりをさせて戴いています。
 
この方の歌はもちろんプロのそれですが、トークがまた素晴らしい。もちろん、それは計算ずくでしているのではなく、心からのものだと分かります。私もいわばトークを以て仕事をしているようなものですが、語る人の真心というのは、必ず伝わるものだと知っています。心のこもった言葉と語りは、人の心をとらえ、結びつける力をもっていると思います。それがまた巧くて。
 
ホールでも十分響きわたるような声量で、狭い集会所のガラスがぴりぴり言いそうなくらい、美しい唱歌や童謡が繰り出されてきます。私も森祐理さんのラジオを欠かさず聴いていますが、その歌声を美しいと感じるのとはまた違う次元がそこにあると思いました。というのは、録音された電子媒体ではなく、ここには生の歌声があったからです。歌は、ただ音が聞こえればよいのではない。声が波動となって伝わってくる。いや、そんな妙な説明はいりません。風が吹いてくるのです。口から発された声が、空気として、風となって届くのです。風、それはルーアハ、あるいはプネウマと聖書では言われていたもので、神の息、そして霊を表しうる言葉です。聖霊降臨というと、炎のような舌だけをご記憶の方もいらっしゃるかもしれませんが、まず「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(使徒2:2)のです。激しい風などというと失礼かもしれませんが、あの歌声は、それくらいの衝撃のあるものでした。そして言葉が心を掻き乱し、鷲づかみにします。言は神であったと聖書も言っています。私は、聖霊が降るのを覚えました。
 
メッセージのようにしても、「いてくれてありがとう」と話しましたが、まさにその歌があるということで披露されました。最後にももう一度歌ったことで、より印象づけられたのではないかと思います。
 
いれくれてありがとう。この私といっしょにいるあなたに、言いつくせない感謝をこめて、この言葉を贈る。ただそこにいるだけでいい。いることに、意味があり、価値がある。これは、力強い福音に違いありません。作詞の牧師、作曲のシンガーの熱いハートは、よく知っています。しかし、さあ救いだ福音だとぶつけるのではなく、誰にでも分かる言葉で、誰の心にも響く言葉で、かけがえのないその人をハグする歌なのです。
 
「これはもったいないわ、もっといっぱいの人に聞かせたい」、そんな声が漏れてきました。「来てよかった」としみじみ語り合う声が聞こえました。いつもなら型どおりの挨拶や、なんとなく話を延長してから帰る皆さんが、この日は、もうこれらの歌で胸がいっぱいになった満足感のようなものが漂っていて、ようやく帰り際に「今まででいちばん楽しかった」「元気をいただきました」と言って、笑顔で帰って行く姿も見られました。
 
私はそこに、「愛によってはたらく信仰」(愛の実践を伴う信仰)という聖書の言葉(ガラテヤ5:6)が迫り来るのを覚えました。
 
さて、(悪い癖ですが)私なりに咀嚼したことをいくらか蛇足のように付け加えます。
 
「いてくれてありがとう」というのは、まさに歌詞で繰り返されるように、感謝を意味しています。しかし、日本語で考えますが、「ありがとう」というのは「有り難し」から来ていることははっきりしており、古語としてそれは、まず「めったにない」語義があります。このコアから派生して、「たぐいまれだ」とか、「困難だ」とかの意味と理解できる場面が起こります。鎌倉時代の西行法師に「ありがたき人になりけるかひありて悟りもとむる心あらなむ」(人間に生まれついたというありがたい値打ちがあるのだから、悟りの境地を求める意欲があってほしいものだ)というように、宗教的な意味合いから感謝の意を表す語として使われ始めたのだと古語辞典は解説していました。このとき、宗教的なニュアンスなしに感謝を表す言葉が「かたじけなし(辱し)」でした。
 
日本語としては、「ある」ことが「むずかしい」というような、レア感覚から始まり、この「ありがとう」という言葉は、次第に自然や神的なものへの感謝の色合いをもつようになりました。聖書の中ではどうでしょう。そこでは感謝というのは、基本的に神への感謝を意味します。わざわざその語を「感謝の祈りを唱える」と訳しているところがいくつもあります。やはりそれは最初から、神を想定した上での、感謝の言葉なのでした。
 
しかし、日本語で考えることがけしからんなどと言わないでください。少しだけ、日本人の感覚も使わせてください。自分はあなたのような立派な方の前に出る価値などない存在です、あなたのような方からこのような恵みを戴けるというのは、もうもうめったにない、ありえないほどのことであります。このような感覚で、「ありがとう」という言葉は養われてきたと考えられます。奇蹟的に珍しいこと、自分のようなものにはもったいないこと、そのような心をそれが表しているとしたら、「いてくれてありがとう」は、あなたがそこにいること、こうして出会えたことは、奇蹟にほかならないと驚いているとは言えないでしょうか。まさにこの稀有な出来事へ驚いていることが「ありがとう」という言葉なのであり、あなたとこの悠久の時間の中のほんの一瞬しか生きられない存在者として出会えたこと、広大な大地の中のわずかな接点において出会えたこと、この奇蹟に驚くしかないような気がするのです。
 
そしてその上で、もっと珍しいことがここにあります。イエス・キリストという方が、神の子が、謀殺され復活するという出来事を通して救いをすべての人間のためにもたらしたということ、この奇蹟中の奇蹟こそ、世にも「ありがたい」出来事だったのではないでしょうか。なんだか慣れっこになって、口先だけで十字架だの復活だのを、何の感情も信仰心をも交えず決まり文句として言ったり書いたりしていないでしょうか。当たり前のことのようにそれを理解してしまい、「外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った」(マタイ18:28)あの家来と同じことを、私たちはしていないでしょうか。
 
歴史上あの一度きりの特異点としてのイエス・キリストの救いの稀少性については、どんな「有り難し」も敵いません。そして、神に感謝するべきことについても、どんな「ありがとう」も敵わないのです。



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