【メッセージ】心に留める
2019年7月7日
(創世記37:1-11)
兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。(創世記37:11)
自分の本には、黄色いマーカーを引きまくります。それだけでもう古書店にも売れなくなってしまうのですが、さらに最近は、附箋まで付けるようになりました。ご存じですか。細くて薄い、フィルム附箋というもの。薄くてかさばらず、透明でバックの文字も読めます。これがじゃらじゃらと房のように付いた本を見たら、それは私の本です。
附箋は、またそこを見るときに役立つ、見出しです。ここだよ、と指し示してくれるサインです。自分が関心をもったところ、いずれまたそこを開くことがある、必要な情報の在処を教えます。メモを貼り付けているようなもので、ここを見よという目印にもなります。
今日開く聖書の箇所も、ひとつ附箋を付けておきたい場所かもしれません。なにせ、創世記の四分の一を超えるひとまとまりの物語の、最初の頁です。創世の歴史をたどり、イスラエル民族の父祖アブラハム・イサク・ヤコブと描いてきた創世記ですが、この三人の代表の名には並べませんが、それでも主役として描かれた章の数では最大となるのが、このヨセフ物語です。まさに人生万事塞翁が馬、悲喜交々の人生が展開し、イスラエル民族の信仰の背景を彩る、大河ドラマのスタートが、ここなのです。
ただし、このヨセフに先立ち、その父親ヤコブのことに少し触れておきましょう。ヤコブとイスラエルとは同一人物です。神がヤコブに、特別にイスラエルという名を与えました。ヤコブにはたくさんの子が生まれました。二人の妻に加えてそれぞれの妻に仕える女にも産ませ、すべてを自分の子とすることができたのです。この辺りの事情は、慌てて非難しないでください。まぁ社会的にもいろいろな事情や習わしがあったのです。
とにかくヤコブには男の子が12人産まれました。これもまた男の子しか数えないのか、と批判が飛んできそうですが、まぁそういうことです。この12という数は、後のイスラエルの12部族へとほぼつながりますので、気にしておいてください。ヤコブの最愛の妻ラケルは、子どもになかなか恵まれませんでしたが、やっとのことでヨセフが生まれ、さらにその弟としてベニヤミンが生まれましたが、その出産のときにラケルは亡くなりました。年をとって生まれた子は可愛いといいますが、ヤコブもそうだったとはっきり書いてあります。しかもラケルが産んだ子ですが、ベニヤミンはまだ小さすぎて、一人前となった中ではヨセフの聡明さをヤコブは特に可愛がっていたというような書きぶりです。
こうした背景だけを把握しておけば、ストーリー展開は至って分かりやすくなっています。時にヨセフは17歳。父はヨセフを溺愛していたように書かれています。10人の兄たちは、ヨセフを妬みました。憎んでいたとまで記されています。このヨセフ、天真爛漫というか、空気を読めないというか、自分の見た夢を兄たちに話します。「聞いてください。畑にいると、わたしの束が起き上がり、兄さんたちの束が集まってきて、ひれ伏したんですよ。」これを聞いて兄たちはますますヨセフを憎むようになります。お前が王にでもなるというのか、と兄たちに言われてヨセフはめげたかというとそんなことはなく、また別の夢を見たときに、兄たちに話します。「また夢を見たんですよ。太陽と月と11の星がわたしにひれ伏すんです。」さらにこれを父ヤコブに話します。父はさすがにこれはまずいと思い、ヨセフを叱ります。「父親のわたしと母さんと兄さんたちも、みなおまえの前で地面にひれ伏すというのか。」しかし、兄たちはただヨセフを憎み、妬んだだけでしたが、父ヤコブは少し違いました。「父はこのことを心に留めた」と書かれています。
今日は、この父ヤコブが、ヨセフを叱りつつも「心に留めた」というところに注目して、神からの良い知らせを受け取りたいと願います。
聖書には「心に留める」という言い回しが多数ありますが、たとえばイエスが山の上で白く姿が変貌した後、イエスがふと口にした「死者の中からの復活」ということについて、それを「心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った」(マルコ9:10)という場面があります。また、バプテスマのヨハネが誕生したとき、父ザカリアがその子にヨハネという名を決めたとき、再びものが言えるようになったという話を聞いた人々がそれを「心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った」(ルカ1:66)というような場面があります。これらの場合、「心に留める」とは、比較的軽いもののように思われます。というのは、これらの人々はこのことを深くは追究せず、この後その話題を追いかけているようなふうには見えないからです。
それに対して、神と人との間で「心に留める」というのはかなり重い意味があるように見受けられます。およその段階順に挙げると、次の4つの「心に留める」があるように見えます。
1 神がイスラエルの民を心に留めたこと。また、民のことを思い起こし、大切に扱うということ。
2 しかし、民が神を心に留めなくなったという事実を指摘すること。
3 そこで苦難が始まり、詩編に目立ちますが、イスラエルの民が「神よ、心に留めてください」と祈ること。
4 神が改めて「このことを忘れるな」と命じること。心に留めよ、と。
残念ながら、しばしばこのレベル4から再びレベル2に戻るループがえてして見られるのですが、それは私たち自身の信仰生活を思い起こしても、さもありなんというところであるかもしれません。
この「心に留める」という言葉そのものではありませんが、思い出すのは、イエスの母マリアの信仰です。イエス誕生のとき訪ねてきた羊飼いたちが不思議な話をします。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2:19)のでした。また、12歳のイエスがエルサレム神殿で行方不明になって見つかったとき、父の家にいるのは当然だと言ったイエスの言葉の意味は分からなかったけれども、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(ルカ2:51)のです。この後のマリアの心情については追跡されませんが、これをその場限りのことでその後すっかり忘れていました、というふうに考えてしまうのは、あまりに寂しいような気がします。ルカだけが記録していますが、ルカはこのマリアの証言を何らかの形で得たわけですから、マリアが後々まで記憶していたとするのが常識だと言えるでしょう。
そこでこの創世記のヤコブが「心に留めた」という記事ですが、物語の最後になって確かにヤコブはこのことを忘れていなかったのではないかと思われるふしがあります。それは、死の床で子どもたちを祝福するとき、ヨセフについて「あなたの父の祝福」が自然をすべて超えているなどと言い、もはや肉の父親である自分を跳び越えて「あなたの父の神」すなわち「全能者」による祝福しか見ていないからです。また、それに先立ち、ヨセフの息子マナセとエフライムと面会したときに祝福しようとして、ヨセフへの祝福においても、神と特別な結びつきをするヨセフを意識しているように見えるからです。
17歳のヨセフの幻想めいた束や星の話など、子どもたちと過ごす中でのささやかなエピソードに過ぎません。私も親として子育てを経験してきましたが、子どもが言った「名言」も、その時には大笑いしたり感心したりするものですが、そのすべてをずっと覚えているわけではありません。また、妻から、子どもがこんなことを言っていた、と聞かされても、そんなこと言ってたっけ、と思い出せない場合もあります。確かに当時はそれを面白がっていたはずであるのに。
そうです。私たちは、そのときには気づいていたこと、一度は考えていたことでも、その後全く気に留めていない、ということがあるのです。まるで、ちょっと附箋を貼っただけで、貼ったことすら忘れてしまっているかのように、必要だとその時は思ってメモしたはずなのに、そのことすら気にしなくなり、当然その附箋に手を伸ばすこともなくなってしまうのです。
酷い事件が起こります。それは社会問題だ、と大騒ぎします。けれども、また新たな事件の報道があると、人々の関心はそちらに流れてしまい、先の問題はもう深く検討しようという空気が薄れてしまいます。災害のときもそうです。被災地を援助しようと、その時は多くの物資が送られたりボランティアに行ったりしますが、やがてその熱も薄れ、被災地でその後も苦しんでいる人々が顧みられなくなります。もちろん新たな災害による被災地が増えていきますが、仕方がない面もありますが、こうして災害や事件も、忘れ去られていく、それはしばしば地学の言葉でいう「風化」と表現されます。確かに心に留めた重大なことであったはずなのに、その非日常から再び日常に戻った私たちは、やがて何も気にしなくなってしまうのです。
しかしまた、私たちは、そもそも気づいてさえいない場合があります。心に留めるべきであるのに、附箋を貼ることさえしないままに、本を読み飛ばしているような場合があります。あるいは、気づいたのに、故意に忘れてしまうということさえ私たちはします。
聴覚障害者が、災害通知や駅のアナウンスが分からないということに気づかない聴者は、そうしたことが人命に関わる問題だということにも気づいていないことになります。大阪城のエレベータを要らないとジョークにした人は、それにより排除される人々がいることに、気づいてさえいなかったのです。傘を横にして持ち街や駅を歩く人は、後ろにいる他人に、とくに子どもに、致命的な傷を与える危険行為を自分がしていることに、気づいていません。歩きながらタバコを吸う人は、その煙が、喘息の子を全治一カ月の目に遭わせるというようなことに、気づこうともしません。エレベータを歩くのは危険だというポスターが駅には貼ってあるのに、どんどん駆け下りるような人が絶えないのは、ポスターを目にしたことがないはずがないので、故意に見ないことにしているとしか思えません。
ところで、このように人の世の中で、気づいていないということは多々あるわけですが、クリスチャンはどうでしょうか。比較的、社会的に弱い立場の人たちのことに、気づいているとは言えるだろうと思います。けれども慢心してはいけません。親切の押し売りもありえます。あるいは、何にも分かっちゃいないのに偉そうに善人ぶった偽善者め、と思われているかもしれないところまで想定している必要があります。私たちはいつでも自分の腹を神とする危険をはらんでいる存在です。自分で自分の行いに陶酔するようなことには、特に注意しなければなりません。ただ赦された罪人に過ぎないことを、一時も忘れてはならないのです。
いえ、もっと気をつけることがあります。私たちがちっとも「心に留めていない」ことがあるかもしれないのです。
それはまず、神が私に気づいていない、とさえ都合良く考えてしまうことです。自分のするこの悪は、神に知られていない、そのように自己弁護することがありませんか。これは神は赦してくれるだろう。聖書にこう書いてあるけど、それは違う意味だから、自分はこれをして構わないのだ――もちろん、律法的に文字通りに解釈するのが適切であるとは限らないのであって、とくに旧約(ヘブライ語)聖書を私たちの生活指針として採用することは事実上不可能です。しかし、それでは新約の新しい掟はどうでしょうか。イエスが告げた新しい掟「愛し合いなさい」は私たちを支配しているでしょうか。世のすべての人をという博愛はまた違うという解釈もありますが、それでは教会内ではどうでしょう。教会同士はどうでしょう。仲間内で愛し合わないことについて、弁明が立つでしょうか。それでも私たちはけっこう弁明しているのです。違うでしょうか。もしそうなら、いつの間にか私は、自分自身を裁き主にしているようなものです。私たちは、いったい福音書をなんだと思って読んでいるのでしょうか。
先に、次のような、神と人との間の心の留め方の段階について考えました。
1 神がイスラエルの民を心に留めたこと。また、民のことを思い起こし、大切に扱うということ。
2 しかし、民が神を心に留めなくなったという事実を指摘すること。
3 そこで苦難が始まり、詩編に目立ちますが、イスラエルの民が「神よ、心に留めてください」と祈ること。
4 神が改めて「このことを忘れるな」と命じること。心に留めよ、と。
「心に留める」とは、原語では、「そのことを保存する」ような表現をとります。神は私たちをずっと取り置いて保存しています。これが聖書のメッセージです。揺れ動くのは専ら私たち人間のほうです。私たちは附箋を貼り、またピン留めをして戒めを掲げていてさえも、心許ないありさまです。けれども神は、私たちをがっちりと留めています。先にマリアの心の留め方を私たちは見習いたいと確認しました。この創世記の場面では、ヨセフの父ヤコブの心の留め方は確かなものがあったと捉えました。しかし、神の留め方はそれとは比較にならない、半端ない留め方でした。それは抽象的なものではありません。
我が子の手と足に、太い釘を刺すのを認めたのは誰ですか。父なる神が、釘打たれたイエスに、同時に、私たちを律法違反だと訴えて処罰すべきことを記した証書を共に釘付けにした(コロサイ2:14)のではありませんか。絶叫と共に十字架に付けられたイエスの血に染む姿こそが、神が私たちを愛したことのピン留めの証拠ではありませんか。しかも私がイエスをそこに追い込んだ。私がそうなるように仕向けた。そのような十字架の死です。それは、後に剥ぎ取ることができる借り止めの附箋のようなものではありませんでした。酷い釘で、これでもか、と痛めつけたものであり、「心に留めた」どころか、「究極の苦痛で留めた」ものでした。その傷は、弟子のトマスに見せたように、復活したからだにさえ残っていた(ヨハネ20:27)のであり、一時的に消えたものではありません。いまも神はイエスのからだに遺るその傷によって、私たちを心に留め続けていること、そのことについて私たちが、気づかず、また気づいても忘れたり、気づかぬふりをしたりしていては、いったい何のために聖書があるのでしょう。イスラエルの民が神を心に留めなくなったという歴史を、またここから繰り返してよいはずがありません。私たちはそのようにして、いつも聖書からの言葉を、心に留め続けているように、呼びかけられているのです。