【聖書の基本】主の晩餐の4つの資料
2019年7月7日
いわゆる「最後の晩餐」として有名ですが、それは?レオナルド・ダ・ヴィンチの名画のタイトルになっているからでしょう。少し前から、人生で最後に何を食べたいか、と尋ねる試みでこの言葉が使われていましたが、もちろんダ・ヴィンチの名画に引っかけてなのでしょう。
しかしそれは単に最後という意味ではなくて、二千年にわたり私たちがいまなお受け継いでいる「聖餐式」(プロテスタント)は、パンとぶどう酒による非常に重い儀式です。カトリックでは「聖体祭儀」「聖体の秘蹟」などとも呼ばれ、教派により多少呼ばれ方が異なりますが、「主の晩餐」は適用範囲が広いように思われます。ギリシア語では「エウカリスト」のように呼ばれています。「良い・喜び」のような語の合成と見られ、ふつうは「感謝」のような意味合いで用いられる語に関係しています。いまでは「ありがとう」に値する意味で使われるそうです。
聖書のみと宣言したプロテスタントが興ったとき、カトリックが秘蹟として七つ挙げていたもののうち、聖書的根拠がないとして多くを廃しましたが、洗礼と晩餐だけは外すことをしませんでした。聖書に根拠があるからです。
主の晩餐についての記事は四ヶ所あります。書かれた年代からすると、パウロの第一コリント書(11:23-26)、マルコによる福音書(14:22-25)の順と考えられ、その後どちらが先と決めかねますが近い時期に、マタイによる福音書(26:26-29)とルカによる福音書(22:14-20)が書かれたと考えられています。この順番で、その記事を比較対照してみることにします(節の数字は煩雑を避けるために以下省略します)。
主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。(コリ)
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。(マコ)
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」(マタ)
時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」(ルカ)
おっと、ルカは杯のことをまず説明していますね。やたらとその前置きが長い。マタイはマルコをほぼ踏襲していますが、ルカはそうとうアレンジしています。但し、実際に杯を回したとは書いていないので、やはり渡したのはパンが最初のように見えます。教会で式の時に読み上げる言葉は、日本同盟基督教団作成の『式文』にある、これらをうまくまとめた式文が読まれることが多いのですが、もちろん教派や教会により様々でしょう。ところでパンを裂くとき、パウロとルカは「感謝の祈り」をささげた(唱えた)と訳されています。原語にはそうした表現をとっておらず「祝福した」のような語が使われています。しかも全く同じ語なのに「ささげた」「唱えた」と訳し分ける理由が分かりません。同じにすべきでしょう。これは「良い言葉」というような構成の語です。英語ならblessでよいのです。マルコとマタイは「賛美の祈りを唱えて」と訳されています。これこそ原語では「エウカリスト」の動詞の形で、「感謝した」と直訳すべき言葉です。これらの日本語訳だけを読むと「祈りを唱えた」と思い込みますが、そんな思い込みを懐かせてはいけないのではないかと思います。
また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。(コリ)
また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」(マコ)
また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(マタ)
食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。(ルカ)
やはりマタイはマルコを踏襲しています。が、「罪が赦されるように」の挿入が目立ちます。マタイらしく「神」という言葉は避けて「わたしの父」に直していますね。パウロとルカは、食事の後という点を強調しています。ルカはパウロと旅を同行していたことがありますから、同じ理解をしていたことが考えられます。
だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(コリ)
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(マコ)
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(マタ)
しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」(ルカ)
これらはこの記事の後に付け加えられている文です。これも同様にマタイはマルコをそのまま使っていますが、ルカはユダにいきなり言及するという不穏な空気を醸し出します。パウロは手紙の中でこの内容を記していますから、コリント教会の人々に、あなたがたの任務を告げる形をとってこの記事を終わります。
如何でしたか。
※ちなみに、こんなテーブルについて食べていたのではないはずだと言われています。寝そべるように?