「わたし」という主語
2019年7月5日
( )の中の語を並べ替えて、適切な英文にせよ。ただし、使わない語が1語ある。
(did / with / who / you /went ) there?
My father did.
中学二年生の模試に出された問題ですが、そこそこ学力の高い子を集めたクラスで、正解者は一人しか見当たりませんでした。生徒の力を知るになかなか良い問題だと思ったのですが、ここまで正解率が低いとは意外でした。
中三生の学力の高いクラスにこの話をすると、ちょっと緊張気味でしたが、正解がさらりと出て皆うなずいていたので、安心しました。中二だと、きついのです。
英語の文は主語がしっかり立てられます。だから、この問答の答えの方を見れば、何を質問したのかは明白です。後は、疑問文を作ればよいのですが、これも主語が確定していたならば、分かります。質問のときは「you」だという思い込みがあると、返答の主語が見えなくなってしまいます。
日本語では、便宜上「〜は」「〜が」が主語、のように教えますが、もちろんそれをルールにすることはできません。そもそも「〜は」は主語を示すものではなく、いわば主題を提示しているに過ぎない、という考え方があります。適切だと思います。その意味では、日本語には「主語」と普通私たちが英語などで理解しているものは、なくて構わないのではないかという提案も、なるほどという気がします。
「主語」とは何のことであるか、定義が曖昧なままでスタートしますが、日本語には主語が必要ないという考え方が成り立つかもしれないように見えてきました。このことは、自分という主体が頑として存立する構図をも必要としなくなります。私という個人が独りでここに立つ、というあり方をそもそもしていないということにもなります。
すると、私と神という関係が、それほど厳しく向き合っているものではなくなる可能性があります。荒野で見渡す限り岩しかないような中、見上げた空に神よと叫び求める風土から生まれる文化とは全く違う原理や背景の中で、私たちは神と向き合っているのかもしれません。
さて、季刊誌『Ministry』の最新号は、本来の予定月に発行されず心配しましたが、一カ月遅れで6月に出ました。もはや附録も以前のようにはなく、特集や記事も、取材や調査、企画イベントなどの面で以前と比べてちょっと安易につくられているというような印象を受けました。10年という区切りを経て、新しい形でスタートするという表向きの宣言ですが、かつての切り口を感じさせないようにも窺え、雑誌としてのあり方がこれからどうなっていくのか、見守らないといけないと思います。もちろん、これらがすべて誤解であり勘違いであるならばそれは結構なことなのですが、なにも牧師や伝道師ばかりが買っているのでなく、私のような一兵卒が喜んで買っており、常々宣伝しているつもりなので、ほかの雑誌ではできないことをどうそ世に問うて戴きたいと願っています。
さて、そうだからと言って、必ずしも面白くないわけではありません。私にとり興味深い記事はいくつもありました。たとえば「誌上ディスカッション」と題してひとりの発題に基づき、幾人かが応答コメントを返すという仕組みで、ひとつのテーマを深める試みです。内容は「神学最前線」であるため、今回は次のような主題の発題がありました。
「わたし」抜きの神学?
「わたしは愛する」という文は意味は極めて明確なようですが、果たしてその「わたし」とは何でしょう。西欧語においては、ほかの誰でもない「わたし」を立てるのが当然ですが、日本語における「わたし」は、そもそも主語として立てないで使うのが殆どで、そこに了解されている「わたし」はもっとぼやけた、あるいはぼかしたものとして、時に周囲の人を巻き込んだ形で含んでいるかもしれないような場合も見られるでしょう。いったい「自己」ということを問うことについて、曖昧なままで、同じ神学を思考し、あるいは適用することができるのでしょうか。だから、「わたしは愛する」とはこの日本でどういう捉え方をされているのか、またそれを生きるのがクリスチャンだとすると、どう生きればよいのか。
原文はもう少し違うニュアンスであったかもしれませんが、私はそのように受け取りました。これに対して、4人の方がそれぞれの立場や関心から応答するということになり、同じ一つの課題を投げかけられても、いろいろな角度から見ることができるのだと興味深く読ませてもらいました。
社会学的な方面から、また神との関係の中での自己を根底に置く考えから、日本の教会の共同体的意義を踏まえた「わたしたち」意識から、考える回答がありました。私は、最後の、藤原佐和子さんの応答にとくに心惹かれました。タイトルは、「神学するときの「わたし」はだれ?」というもので、神学的な語りの中に、その語る当人の「わたし」が見えないところに問題を覚えるというものでした。だから神学とは言うものの、研究者や牧師などに限定してはならず、誰もが各自一人ひとりどこかに立って生き、信仰し、行動しているのだから、「無色透明な」人などいるはずがなく、それぞれ独自の神学的視点をもっているとしなければならないと言います。このことは、私なりに別の言葉で言うと、主観・客観の対立を正当化してきた近代思想の視座にのっかり、自分が世界の外で世界を眺め降ろしているかのような態度、つまりは自分が対象としてい見ているその世界の中に自分は属さないという、自己例外視を無意識にやってしまいがちな私たちのあり方が問われていると理解したいと思いました。
筆者は言います。安易に「わたしたち」とも言いますが、そこには実のところ、自分に都合のよい者を取り込み、都合の悪い者を排除している構造があるのではないかと自らを検討する必要があります。これも私は全くその通りだと言わざるをえません。「わたしたち」と発言しながら、聴覚障害者にはできないことを平気で言えるのが聴者です。女性を含まない形で男性がそのように言うことはよくあります。筆者は筆者の関心の中で自分がどのように「わたし」であるのかについてを具体的に明らかにしますが、それはぜひ本誌でお読みください。ただ、共に生きる決意により他者と出会うところで、「わたし」がまた別の「わたし」と出会うという出来事が起こり、そのとき初めて「わたしたち」と呼べる感覚が理解されていく、またそのように言明できるようになっていく、というような方向が説かれていたように思います。「わたし」そして出会いにより「わたしたち」へとつながっていくところで語られる神学が、正確に言えば何かしら教義や理論のように綴られた文面の神学というものではなくて、その思想をその「わたし」なる覚悟を背負い責任を引き受けたかたちで生きる決意をした人格としての「わたし」がその都度語っていく中に、霊的な力が協同していく出来事が現実となっていく、そのように私は感じるのです。
英語のように、主語を否が応でも立てなければ気が済まない文化もあります。しかしまた、それだけで動いていこうとすると、個々の「わたし」が対立し合いながら蠢くばかりとなりかねません。だから契約を結ぶのだとか、互いに尊敬することが必要なのだとか、哲学の内部でも、様々な解決が図られてきました。しかし、私は日本的な、主語を必要としない、もしかしたら英語のサイドから見ると曖昧な無責任な態度とも取られかねない、「わたしたち」に限りなく近い「わたし」というものには、きっととてもよいところがあるだろうと思います。そこには情が通う安心感がある。あるいは信頼感がある。流行語として終わらせるのはもったいない「忖度」は、いわばそのような「わたしたち」という場での常識であり良識であるとは言えないでしょうか。ただ、その柔らかさだけでは、神と向き合う信仰の基盤は完成しません。イエスのために「家、妻、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑」さえ捨て、挙げ句の果てには「自分」を捨てよというのが福音書でした。前者は神と向き合うのはただ単独者としての「わたし」のみだという一面を告げており、後者はその神と対峙したときの「わたし」ですら、神の前には、ほざくヨブほどの価値もないのだということを教えてくれるように捉えています。