ピンとこない子どもたちと大人たちとの危機
2019年7月3日
ひめゆり平和祈念資料館の取材番組が、6月23日に福岡で放送されました。沖縄の地方番組のようでした。その直後に、沖縄の慰霊の日の式典があり中継されるので、それに先立って関心を深める目的であったのかもしれません。
資料館の悩みがひとつ大きく取り上げられました。それは来場者の感想に、「ピンとこない」という言葉が最近多くなったことでした。戦争が怖いということがピンとこない。そんな人は、以前もいたはずです。ただ資料館の人は、それを何のブレーキもかからずにこうして書き表すというところに意味を見出そうとしていました。つまり、若い子たちにとっては、祖父母ですら太平洋戦争後の生まれになってきており、家族や周りの人たちがみな、揃ってピンとこない人々になっているという現状です。だから、そもそもピンとくる人と接触していないというあり方が拡がってきていることになりますが、なんとか受け継いで伝えていく、そのもう限界にまで来ている時期です。直接の体験者のことを思うならば。
戦後生まれの世代が、これをなんとかしようと、展示物について案を巡らせ、来年リニューアルする時に改善していく過程が、番組ではレポートされていました。
「ピンとこない」ということについては、先日も記しましたが、学力に関係なく、いまの小中学生が「レンゲソウ」が完全にピンとこないレベルになってきていることに、私はショックを受けました。軒や縁側を知らないというのはどこか仕方がないふうに感じつつも、このレンゲソウって何という子どもたち全員の反応には、世代のギャップ云々ではなしに、何かしら生物との直体験のなしに、問題を感じずにはいられませんでした。
対照的に、電子機器の操作については、子どもたちの馴染み方は大したものです。使い方を説明などしなくても、感覚的に操作します。ゲームもそうですし、マニュアルを熟読理解してから触る、というような段取りは全くとりません。なんとなく触っていけば分かるというわけです。こうしたデジタル機器に対応したスキルは、よく馴染んでおり、何の心配も要りません。
そうしている中、中学二年生の模試の監督をしていて、これまたびっくりしたことがありました。国語の問題で、数問出る漢字の書き取りでした。巡回していると、そのクラスの殆どの生徒が空欄にしている箇所がありました。そこは、学力的に最高というわけではないのですが、地元でもやや難しい公立高校に合格するような生徒が30人ほど集まっている教室でしたから、共通して手も足も出ないとなると、かなり難解な出題だったのかなと感じました。何人かが書き込んでいました。一人は字の形が間違っていました。別の生徒は全然別の字を書いていて、送り仮名と合いませんでした。そして一人だけが、漢字として成立する漢字を書いていました。まさかとは思いましたが、私が問題を覗くと、そこには「○○○にさそう」とあり、「さそう」に傍線が引かれていました。
もしかしたら、教科書でまだ履修していないのかもしれません。が、すでに中学生活半ばです。また、日常的な言葉として使わない生徒はいないでしょうし、道徳的な教訓としても「誘惑が多いから」のように見聞きしていないはずがありません。たぶん読むのには問題がないのでしょうが、書けません。字形すら浮かんできません。せめてごんべんだけでも書くということもしてくれません。
もちろん漢字の理解にも個人差がありますし、読むよりは書くほうがハードルが高いのは明らかです。でも、何か書くにも十分出て来そうなこの言葉が、全く出て来ない生徒が9割という事態に、私はショックを受けました。
スマホやパソコンでは、変換しているはずです。見てはいるのですが、書く経験がないと、書けないということなのでしょうか。紙と鉛筆という実体験を伴わない情報操作に習熟していても、書く経験を再現することはできなかったというような事態です。
息子は高校で生物との体験をレポートせよと言われて、ハッと気づいたそうです。私と幼稚園の帰りに、草花や虫などにいっぱい触れていたこと。どこかに連れて行ってもらっても、花の匂いを嗅いだり、虫を捕まえたりしたこと。それは日常であり、毎日の食事のように、確実に自分の体を知らず識らずのうちに作るものとなっていました。ふだん意識はしないし、かつてもそれを特別に楽しいとか感動するとかいうようなこともなく、ごく当たり前のこととして生物体験をしていたこと、それがかけがえのない経験だったのだ、と彼は理解してくれました。これは、親冥利に尽きます。分かってくれてよかった、と。もちろん、分かってくれなくても、いつかそのことがよい向きに働くことは確信していたし、だからこそ、日々そういうふうに過ごしていたのですけれど、親が子にしてやれることというのは、体によいものを食べさせることと、病気にならないように努めることのほかは、こうして小さいときにでないと触れあえない出会いを、日常的にもたらすことくらいしかできないような気がしていたのです。
コマーシャルでは、大きなワゴン車で子どもをキャンプ場に連れて行き、子どもに自然体験をさせるのにこの車が最高です、というような商売目的のイメージを刷り込もうと躍起になっていますが、たまの休みに特別な自然体験をしたということが、そんなに子どもの経験を豊かにするようには私には思えません。一カ月ずっとスナック菓子だけ食べさせていて、月末に一度豪華焼肉パーティをするということで、子どもの食生活が豊かになるとはとても思えないのです。もちろん、その体験をするために車が必要であるという結びつきも、そもそもないわけですが。
バーチャルな体験が無意味だとは申しません。しかし、バーチャルが基本となり、次第に実体験そのものが消え失せるようになったとしたら、何かが間違っていると思えて仕方がありません。検索ひとつとってもが恐ろしく簡単で指先で辞書をめくる感覚を味わうことなく、切り貼り作業や怪我をする痛みの全くないプレゼンが巧みになったところで、それが何をもたらすのでしょう。「誘う」が手で書けず、形も浮かばないとき、コミュニケーションをはかるということがどのように実現されるのでしょうか。レンゲソウに限定したわけではないのです。そこらにある植物の名前や性質についてエリートさんたちが著しく無知で、触れたこともないというまま大人になって、どうやって自然環境の意味を理解し、それと共生できるというのでしょうか。
電子機器だと、異常を来したときにはどうしようもありません。しかしメカニカルな機能については、いくらかおかしい時にも、原理を考えれば修繕も可能であり、少なくとも応急処置ができます。私もトイレの水が止まらなくなったときに、タンクの中の簡単なメカニズムを見て、何が外れているからそこをつなけば止まると理解し、元に戻りました。へたをすると水のお困り業者に電話でもして、数万円を支払うような家庭があるかもしれないようなケースでした(安くて便利、というコマーシャルに騙されてはいけません。トイレの詰まりをぼこぼこと吸引したで二万円くらい取られます)。小さいころから工作だの何だので、手作業で仕組みを作ったり直したりしてきたからです。理科実験のキットの組み立てもよくさせますが、小学生たちは、ほんとうに何もできません。エナメル線の端をいじるのも、教えこんでも要領が分からないし、銅線を巻いてコイルをつくるなどを目的にすると、もう目も当てられません。こうするとこの後どうなるか、ということを考えればその先が目に見えているはずなのに、そうした見通しも立てられない。いや、私も小学生のときにそんなことが器用にできていたわけではないはずなのですが、体験は見通しを立てることを可能にします。こうするとああなる、そうならないためにはここをこちらにしておけばいい、というような考えを自ら立てていくという、その発想自体が養えていないのが明らかです。これはそういう子が偶々いる、というのではありません。クラス全体、こぞって、です。もはや、実験キットをつくる業者が、小学中学年ならこれくらいはできる、という見通しで考案している、道具の揃った「お任せキット」ですら、もはや現実の小学生に追いついていないようです。いえ、そもそもそうした道具は、私たちは、針金とペンチと、糸とクリップと……と自分でばらばらに用意して、それらを自らつないで装置をこしらえていたわけで、説明書どおりに部品を組み立てればできる、というような夢のようなセットはありませんでした。今では、もはやプラモデルすら作り方を知らないという事態に陥っています。
そうした子どもたちを批判しているのではありません。大人がそうさせているのです。批判するなら相手は大人です。効率化や能率化、そしてそのサービスをすることで経済性を高めたために、カスタマーは何もしないで業者任せにしておく、という文化が日常になってしまったら、もうあらゆることが自分ではできなくなっていきます。総菜を買えば便利ですが、料理の仕方をまるで知らないままの大人が増えます。必要になったら料理教室に通いますし、総菜は素材だけを売るよりは経済的価値が上がりますから、これらのギブアンドテイク全体が、経済効果を上げます。つまり、経済が豊かになるということの中には、自分ですればよいことを金を払って他人にしてもらう、というような構造の中で成立しているかもしれないのです。もちろん、高齢化社会などで、高齢者が総菜を利用するというのは悪いアイディアではありません。しかし、それを可能にするためには、コストダウンのために高齢者以外の人にもその総菜を売って利潤を上げる必要があります。こうして総菜経済が発展します。多くの場合女性が家庭で料理をするとすれば、女性の社会進出がその総菜の必要性を増やしますし、レジャーが発展することでも同様になります。とにかく経済発展という聞こえのよい言葉が、その実本当に発展なのだろうかと疑問を含むような構造の中での出来事を本質としている可能性を、もっと問うてもよいのではないかと思うのです。総菜を目の敵にするのではなく、一つの例として思考モデルに使っているだけですから、それを悪く言っているのではないのですが、こうして総菜が大きな産業になると、そこに人手が必要になり、産業が発展すると給料もそれなりに上がるでしょうが人が集まることになります。そうして別に必要な介護なり医療なりという分野で人手が不足するようになるのだとしたら、どうでしょう。景気がよくなったのですよ、という数字を示して、経済政策が成功しているという政府の発表と、それを見てその方向で政治を続けさせようと投票する有権者たち、数字が事の良し悪しを決めることでよいのかどうか、問い直さないといけないのではないでしょうか。
こうしたトリックをほんとうに暴くことのできる政治家が必要です。あるいはまた、これは哲学と呼んでよいものであるならば、こうした事態を、私のような杜撰な思いつきではなしに、もっと説得力のある仕方で世に説き明かすことのできる哲学者が必要です。もちろん、教会の説教者が、こうした仕組みを蛇のような賢さできちんと見分け、福音と共に明らかにするのであってもよいはずです。社会問題を扱えばよいというのではありません。世の一部の波に乗っかって、政権を批判したり揚げ足を取ったりすれば、一定の知識層の人気が取れるというような、歪んだエリート意識に浸されるようなことなく、イエスがあの時代を見抜き、痛烈に批判していたように、真実の知恵を以て、聖書の言葉を世を救うものとしてあかりを掲げることで、その力をいまに活きるものとして示すことはできないでしょうか。聖書の言葉の化石のような解釈について自説を繰り広げて論争することが、聖書を生かす道なのでしょうか。派閥争いのようなことをしているのは、政治の世界だけではないような気がします。何のために聖書を調べ、何のために闘うのか。自分が世界から外に出て世界を眺め回しているような誤った視点は、近代哲学の弊害として、とっくに反省がなされているのに、教会がそんな時代遅れの近代性の罠の中でお山の大将のようになっている姿にさえ気づかないのだとすれば、哀れで惨めで仕方がありません。
気づかないと言えば、自分の至らなさに悩みもがき、口にも出せないような人が教会にいることに気づいていますか(私もそのひとりだけど)。教会に来ていれば皆ハッピーで、奉仕に励んで元気な教会、というような幻影を信仰しているような立派な人がいるかもしれませんが、決してそんなことはありません。ただ、聖書という共通の場があることはなんとも素晴らしいことです。聖書はその意味で、基準あるいはベースとなりやすいものです。その俎の上で互いに飾らずに話し合えるとき、ピンとくるものに出会えるのではないでしょうか。私たちはどうにも、大切なことにピンときていない者に過ぎません。ピンとこない、それは気づかないということと近い意味があるようにも見えます。信仰とは、自分に気づいていないことは存在しない、と豪語することではないはずです。いま自分がピンときていないことにも、気づかせてもらいたい。そして、人のために祈ることから始めたい。健気に仕えるひとが支えられるように。危険から避けられるように。「パワー」をもつ人は、いま気づいていないことに気づくことができるように、と。