外国の?
2019年7月1日
キリスト教は外国の宗教だというのは、昔はよくありましたが、いまはもう……というわけでもありません。外国から来たということで、渋い顔をする人もいますが、受け容れるにしても、外国からだという認識は揺るぎないものでしょう。
では仏教はというと、外国の宗教という答えは、もっと減るのではないでしょうか。仏教は紛れもなく日本に外から入った外国の宗教です。当初はそれを国政のために採用するかどうかでもめたり、政治的判断があったりしたようですが、その時代は、ハイカラな外国の宗教として始まったはずです。奈良仏教でひとつの地位が確立したように思われます。
仏教を外国のものと感じない人はいるだろうと思います。外国と何故感じにくいのかというと、私たちの精神文化に馴染んでいるからではないでしょうか。仏教文化は、言葉にしても習俗にしても、私たちの生活によく馴染んでいます。そしてそこで育った私たちが、自分を形成してきた背景として仏教を感じているからだという説明もできるでしょう。
結局、自分がそれを背景に育ってきたのであって、自分を形成する文化がそれだった、つまり自分のスピリットが仏教から形成されてきたという、自分の存在がそれにより成り立っているという事情が大きいような気がします。
そういう意味で、その人の霊肉を築いてきたものから遠ざけようとするのは基本的に無理なのであって、仏教でも神道でも、習俗として生活にしみついているものを擲って、キリスト教を信じませんかというのは、怪しい誘いのように見えるのも尤もなことでしょう。その人のアイデンティティを変更させようとしているようなものなのですから。
外国からのものを受け容れ難いのは、自分が変われと言われているようなものだからなのかもしれません。自分が変わるというのは恐れて然るべきです。大人になるのが怖かったという人もいることでしょう。反対に、変わりたいという願望もあると言われますが、それでも、自分が自分でなくなるように仕向けるものが迫ってきたら、それに対して抵抗するのは当然と言えば当然です。
誰かある人と強い出会いを果たすとき、自分が変えられる、ということがあります。恋愛はその最たるものでしょう。自分が変化することなしに恋愛はありません。もしあったとしたら、自分が相手を道具として利用するような場合に限られます。人格が強烈な出会いを果たすならば、互いに変化を受けるのは紛れもない事実です。
恋愛に限らず、よい師に出会うとか、友と出会うとか、人生を変える出来事が、出会いという事件の中に起こる場合があるでしょう。イエス・キリストとの出会いは、確かにそのような先生として、また友として、出会うことにもなると思われます。読書の中で自分が変えられるということもありますから、聖書を読んで、あるいは聖書についての話を聞いて、イエス・キリストと出会うということは、きっとあります。基本的にクリスチャンと呼ばれる人々は、その経験がない可能性はまずありません。あったら偽者と思われても仕方がないでしょう。
それはかつての自分を壊す出来事です。聖書ではそれを自分に死ぬという表現までとります。そこまで言えたら、本当に強い出会いだったのでしょう。自分が変わるどころの話ではなく、それまでの自分が死んでしまったというのです。そう言えば、人には変身願望というものがあると聞きます。この辛い状態から抜け出したい、自分が嫌だから変えたい、いまの自分は本当の自分ではない、本当の自分として生きたい、そんな気持ちもまた、私たちにしばしば起こるような気もします。それでいて、変わるのが怖いというのは、矛盾しているようではありますが、やはり、バンジージャンプしたいと思ってもいざ下を見ると足がすくむ、というようなもので、怖いのは怖いわけです。その先自分がどうなるか、分からないからです。不安を懐いてしまうからです。
キリスト教が外国からのものだ、と言ってのけるとき、自分が変わるのを拒絶する心理もあろうかと思われます。自分が、外からやってくるものに襲われたくないのです。「国」が問題なのではなくて、自分という枠の中で「外」というのが問題なのでしょう。外から自分を変えようとやってくるものに対する本能的恐れが、自己防衛しようとします。けれども、外からくるものはあなたを破壊しようと来るものばかりとは限りません。キリストは、私たちの外から、愛で包んでくる、とも言えます。私の中にない善なり愛なりが、外からやってくる。もしもこちらが心を開いたら、後から振り返ると、告白をためらってはいたが好きになってよかったと思えるような、人格的な出会いがそこにあることでしょう。恋愛を恐怖せず、自分がその出会いで変わることで未来へ続く道が見えてくるように、イエス・キリストとの出会いは、永遠へと続く道を私たちに教え、そこにぽんと私たちを置いてくれることになるのです。