問題があります

2019年6月27日

世界には難民問題があります。
子どもの虐待は社会問題です。
 
決して間違ったことを言っているわけではありません。けれども、何かこの言い方にひっかかりをもっていました。どうしてだろうと思っていましたが、いまさらながら、ひとつの当たり前のことに気がつきました。それは、この言い方がこの問題を他人事だと思っているということです。あるいは、その問題の外に立って、傍観している言葉だということです。
 
自分が交通事故を起こしたとき、私は「交通事故は社会問題だ」などとは決して口にしないし、頭にも思い浮かべないでしょう。虐待している本人が、「虐待問題が世間を賑わしている」などと言ったとしたら、嘘つきか自己欺瞞か、自己認識に異常があるアイデンティティ欠落のような状態にあることになるでしょう。
 
社会問題になっているから、自分も、というような考え方ならよいのです。ひとまずそれを多くの人が問題だと考えている、あるいはその問題が注目されている、ということを一度押さえておき、だから自分はどうするか、と考えるのは健全だと思います。しかしそのときにも、ここだけを切り取ったら、不自然になってしまうと感じるのです。あくまでも、「自分は……」のほうが主文でないといけないわけで、かの「問題がある」で切り取ったとしたら、傍観者で終わってしまうだろうと私は感じます。
 
「問題がある」ということを認識するのは、それはそれでいい。けれども、それは「どうしよう」という意識のための前提であるはずの言葉だ、と考えます。その意識がないままでは、いくら「問題だ」と口にしたところで、自分の問題にはなっていないし、なることがないと思うのです。
 
マケドニアのフィリピで、パウロとシラスは、逮捕されます。そこにはユダヤ人たちが集まる場所がありましたが、同時にそこは占いもはびこる町でした。ある占いの女の目を覚まさせた二人は、その女で金儲けをしていた輩によって理不尽な訴えを起こされ、捕まえられ、投獄されてしまいます。二人は鞭打たれ足枷まではめられてなお真夜中に賛美と祈りを欠かすことがありませんでした。他の囚人たちもそれを悪く思わず聞き入っていたところ、大地震で牢が開き、鎖も外れました。看守は、囚人を逃がすと自分の責任になると恐れ、自害しようとしますが、パウロは、囚人たちは逃げないから死ぬなと止めます。弱い立場の看守はパウロとシラスにひれ伏して、「救われるためにはどうすべきでしょうか」と必死で問います。二人は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と答え、その看守と家族皆が救われることとなりました。
 
「どうすればよいでしょうか」という切実な問いがそこにありました。そこにあるのは切羽詰まった問題であって、自分と家族が生きるか死ぬかの境目にあって、腕組みして問題を見つめるような余裕はありませんでした。
 
……という聖書の記事を、私たちはまた、腕組みして見つめているのでしょうか。聖書を研究する仕事は、聖書を皆が知るために大切な素材を提供してくれて助かりますが、仕事や研究での貢献をなすわけではない私たちが、聖書をひとつの対象物のように眺め、ときに見下ろして、聖書にはこういうことが書かれている、とか、聖書にはこういう問題がある、とか、評論家のような眼差しで、つまりは他人事としてしか扱っていないでしょうか。
 
できるだけ他人事とならないようにと自戒をこめつつ(でも無理かな)、告げてみましょう。「そこにこそ、問題があります」と。



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