実は、私は
2019年6月23日
しかし、わたしたちの本国は天にあります。(フィリピ3:20)
25年とは名探偵コナンも長いですね。初回のエグさのことは知る人ぞ知るわけですが、いまさらキャラ設定を説明する必要はないものとします。江戸川コナンという立場で生きることになった子どもは、実は17歳の高校生名探偵、工藤新一。新一の恋人の蘭のそばをさりげなくガードし続けて四半世紀というわけです。
実の姿を隠して、無防備な姿で世間で生きるところにドラマがあるという設定ですが、こうした「実は……」ものは物語にはよくあることですが、世代的に若い方々には通用しないことを承知の上で、典型的な例を時代劇から挙げてみます。
「水戸黄門」「遠山の金さん捕物帳」「暴れん坊将軍」……いやぁ、分からないですよねぇ。「前(さき)の副将軍・水戸光圀公にあらせられるぞ」という決まり文句を待って、40分ほど悪のはびこる情景に耐え忍び、最後にスカッとするという快感を、日本国民は毎週楽しんでいたのですね。北町奉行遠山金四郎が正体を隠して遊び人として江戸の町で過ごし、悪の現場で大暴れ。そのとき桜吹雪の入れ墨を相手に拝ませておき、白洲(裁きの座)にてしらばっくれる悪人に対して、「おうおうおう、黙って聞いてりゃ寝ぼけた事をぬかしやがって!」とせせり出て、「この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ!」と片肌脱いで見せると、悪人は目を見張り観念するという、お決まりの展開を期待していくのでした。暴れん坊将軍は、八代将軍・徳川吉宗(享保の改革でおなじみですね)が、旗本の徳田新之助として市井に出て……という同じような効果をもたらす物語。
高い身分でありながら、庶民のような姿をして人と交わり、善良な人々を虐げる悪人を見つけ出し裁くというところは、日本人的であるのかもしれませんが、能力のある者が正体を隠して肝腎のときにそれを発揮するというのは、カタルシスを求める人々が物語として求めるものであったとも言えるでしょう。アメリカでだってスーパーマンなんかでスカッとしたいんだろうし、ウルトラマンなどのヒーローだってどこかそんなふうです。女の子ヒーローにしても、もう数え上げればきりがないくらい。
もう結論のようですが、イエス・キリストもそのように人の間に住まわれたと見ることもできましょう。ただ、このヒーローは、人間により殺されて復活するという過程を経ました。決して負けないヒーローではなく、負けることで勝利したとも言えます。だからこの系統で行くと、「ナルニア国物語」のアスランが魔女に一度殺されて復活するというような形の物語になります。
では、私たちにはそのようなことはないのでしょうか。イエスと出会い、イエスが友となって救い出してくれた私たちとは、それは関係ないことなのでしょうか。
パウロはフィリピ3:20で、「わたしたちの本国は天にあります」と言っています。キリストの十字架に敵対する者らは、この世のことしか考えておらず滅びに向かうだけだが、「わたしたちの本国は天にあります」と言うのです。
これはよく、クリスチャンや教会の墓石に刻まれています。確かにいい言葉です。この「本国」というのは新約聖書でも珍しい語です。ほとんどの邦訳聖書が「国籍」と訳しています。新しい聖書協会共同訳でも「国籍」と訳しなていますが、注釈に、直訳で「市民権」という解説を入れています。これは英語の聖書でポピュラーな理解であるかもしれませんが、「国の市民たること」という意味ならそれもよいように思います。いずれにしても「国」というのは、ギリシアの都市国家あたりを想定するべきでしょう。現在のリヴァイアサン的な巨大国家やかつてのバビロニア帝国のようなものでなくてよいはずです。しかし黙示録が想定する天の都エルサレムは、日本列島くらいの一辺の正方形くらいありそうですから、さて、大きいのやら、小さいのやら、どうなのでしょう。
「本当の」というニュアンスは原語にはありませんが、天の国に立場をもつ者だという感覚がそこには具わっていると言えるでしょう。そこに居場所がある、ということはなんとうれしいことでしょう。現代の片隅で「生きづらさ」を抱えている人がたくさんいることと思います。それはまた別の言葉で言えば「居場所がない」ことでもあるでしょう。私たちは、なんと天に居場所があるのです。
天というのは、マタイの語法からすると、神を意味します。もちろんここはパウロですからマタイを重ねることはするべきことではないでしょうが、もしもマタイがこれを書いたのであれば、それはきっと神のことですから、私たちは神に居場所をもっていることになります。こう見るともっとうれしくなります。
だったら、早いところそこに行けばいいじゃない。そう思いたくなる場合があるかもしれません。パウロにしても、このままもう天に行っちゃったほうがいいのか、地上で苦しみつつすることがあるのか、板挟みになるといった悩みを打ち明けることがありました。時折カルト宗教で短絡的に、皆で天国へ、などという悲劇を迎えることがありますが、それはそれで神の期待を無にするようでもあり、もちろんお勧めできることではありません。
私たちは、地上にいま置かれています。神が置いているのだという信頼をもっているならば、それを振り払う必要はないし、無視してはいけないだろうと思います。神は必要があって私をこの地上に置いてくださっているのだし、ここにいることで何か役割が与えられていると受け止めるのが、神を信頼するということなのではないでしょうか。
私たちは神のように高いところから俯瞰する視座をもっていません。地べたを這いずりながら、共にそのように生きている同胞たちと顔を合わせ、協力したり反発したりしながら、神とのつながりを頼りに、与えられた時と場の中で蠢いています。自分の思い描くような理想の生き方ができるわけではありません。そのことで苦しいとか悲しいとかいう感情を抱いてしまいます。何か困った同胞により悩まされることもあります。私たちの最大の苦難は人間関係だとも言われます。いや、人間のつくりだした経済環境が苦しめることが多くなっているのが近現代であるかもしれません。
もし、この地べただけしか見えていないのであれば、そしてこの土の拡がる地平だけが自分の世界のすべてであったら、本当に苦しいことでしょう。抜け出すことができません。子どもだったら、時にファンタジーの世界に走ることもできます。そういうおとなもいます。しかし現実に引き戻されるとき、逃げ場もなく追い詰められてしまいます。
水戸光圀がほんとうにただの「越後のちりめん問屋の隠居」(ふだんはそう名のっている)でしかなかったら、何も事件を解決できず、悪者に殺されてしまうだけだったでしょう。遠山金四郎がただの遊び人でしかなかったら、事件を解決することはできなかったことでしょう。ただの徳田新之助には、悪を成敗する力はなかったことでしょう。彼らは、実は身分と権力があったわけです。コナン君がただの小学生だったら、何もできなかったことでしょう。実は才覚があったのです。それが、彼らの「強み」でした。
クリスチャンも人間です。追い詰められて苦しんで悩み嘆きます。しかし、実は私はあの神の国の市民なのだ、という立場をもっています。これは「強み」です。逃げ場がないようであっても、居場所があります。苦しむことはありますが、喜びに変える方の待つ住まいに帰ることができます。
もちろん、二つの世界という考え方をあまりに平板に捉えて、二元論的に肉体と霊魂とを分離して考えるなど、勝手に話を造り上げていくと、途中から何か不都合が起こります。それは古代ギリシアにありがちな思想でしたが、それと絡めて理解して分かったつもりになっていくと、道を見失いかねません。ただ、神が約束した土地がある、その一心で荒野を旅したイスラエルの民のように、私たちは自分の居場所がちゃんとあるという神の約束を信頼するならば、どんな世界像を思い描かなければならないという必要もなく、イエス・キリストという道を見失うことなくたどることで、安心を与えられることができます。それを、キリストに従うと言ってよいと思います。立派な人になるとか善人になるとか、そういうのが従うという意味ではなくて、キリストを見失わずについていくこと、この地上を旅していくこと、まずは従うという意味はそれだけで十分です。あとはそのうちに、なんとかなります。なんとかさせられます。
実は、私は神の国に住まいをもらった者なんです。こう言える強みが与えられたら、きっと、元気になるでしょう。
ちなみに、遠山の金さんは、毎回江戸で大暴れして桜吹雪を見せつけていました。よくぞ、あれは実は北町奉行様で……などとばれなかったものかと大変不思議に思ったものです。クリスチャンは、あれは実は神の国の住人なのだ、と、むしろばれたほうがよいかもしれませんね。