自由と多様性 (教会が変わるために)

2019年6月21日

かつては「自由」が盛んに議論されました。キリスト教哲学としての自由もありました。それでルターは、有名な自由についての言明を遺すこととなりました。「〜からの自由」が普通の感覚で捉える自由概念であり、それを実現させようとして、絶対王政の時代から自由市民社会へと移ってきたのですが、ルターなど神学的な観点からは、「〜への自由」という形でキリスト者が自由を実現することに注目したのだとも言えるでしょう。西欧近代においては、市民社会の自由に根拠づけをする必要もあって、より形而上学的なレベルでも自由が盛んに論じられました。その結果、選択の自由や自発的自由など、カントが道徳思想の成立の試金石とまで考えた自由が、認識という科学的証明をする形とは別の形で、事実として考えられるようにもなりました。一般庶民の自由など考えられなかった時代とはまた違う意味で、切実に自由とは何かということが検討されるようになったわけです。
 
現代では、そうした意味では、自由というものについて考える動機がなくなってきました。もちろん、いまもなお自由を求める闘いは世界各地で行われています。それどころか、最近も性のあり方についていろいろな角度から日本でも自由にまつわる声が叫ばれているし、世界では国家からの自由を求めるデモの声も響いています。しかし、日本では曲がりなりにも自由は憲法で保証されているし、ある程度の社会的自由は実現されてきたと見ることもできそうです。表立って自由とは何かを話し合うことが珍しくなりました。
 
気づけば、時に「多様性」という言葉が表に出て来ることが観察されます。これは私見によると、「自由」についての議論と重なる部分が多いような気がします。誤解を恐れず言うならば、自由のひとつのバリエーションとして多様性という言葉が飛び交っているのではないかと思われるほどです。かつての「自由」の議論とほぼ重なる視座から、いま「多様性」という言葉を掲げて似たような議論や主張がなされているように見えるということです。LGBTは人の性質の多様性によるのだから尊重しなければならない。女性だからこうだなどと決めつけるようなことをするな。女性は子どもを産む機械だという暴言を許すな。身体的精神的様々な障害も多様な性質の現れ方だと捉えて、価値観から判断しないようにしよう。画一的な教育現場となることは非難されるから、一人ひとり子どもたちの多様性を認めていくようにしよう。こうしたことを多様性として呼ぶ場合があるようです。また、社会的にも、価値観の多様性という言葉はもうすっかり定着していて、以前は皆で同じテレビ番組を見ていたものが、ばらばらになった、などという時にもそのように言われます。
 
こうすると、「自由」や「多様性」という概念は、無条件で善いものであると見られていることになります。自由主義を否定すると反社会的だというレッテルを貼られそうですし、多様性を認めないとなると、とんでもない危険人物だと指さされもするでしょう。けれども、丹樹運に自由や多様性ということを、善良な価値をもつものとして絶対的な価値をもつものと前提してはなりません。その語の示す内容規定が曖昧であるという点が致命的です。なんとなく善いことのように前提してしまっているとすれば、少しばかり反省(この語は叱られて反省するという意味ではない)する必要がありましょう。LGBTの味方のような顔をしている教会がありますが、私は恥ずかしい。彼らを二千年にわたり虐げてきたのは、教会だったではありませんか。教会が権力と結びついて、彼らを殺してきたのです。それがいま、さもずっと以前から君たちを理解しているよ、多様性なのだからね、などとにこやかに言える神経が私には分かりません。許してもらうためには悔い改めるしかないのではないでしょうか。教会はいつも正義の味方だと自称していないでしょうか。そんな欺瞞を平気でしていて、どうして聖書が読めるのか、聖書を説けるのか、と憤りさえ覚えます。だから教会を人が頼らないのではありませんか。教会の偽善を感じるから、人は近づかないのではありませんか。あれは過去の教会の過ちだ、もしあのころ自分がいても、そのようなことはしないのだ、などと呟く者をイエスは、白く塗った墓だと非難しました。教会は白く塗った墓になっていませんか。言い過ぎているかもしれませんが、私を非難するならしてよいので、この問題について心ある方は考えてください。私は、いま立ち上がり権利がようやく認められ始めた方々に、申し訳なくて仕方がありません。ごめんなさいと顔を合わせられない思いです。見えない方も、聞こえない方も、病気の方も、いじめつづけてきた人々の信じてきた聖書を、この私も信じているのです。それでも信じているのです。だから、それを許してくださいなどと軽々しくは言えない立場ですが、それでもそう言うしかない者なのです。
 
そもそも「多様性」とは生物学的な用語であったと思われるのですが、これが社会的にいろいろ違ったタイプの人がいるという意味で使われるようになり、むしろそちらのほうが世の中では幅を利かせているかのように見えます。しかし、個人の心の中でも、様々な考えや感情、時に矛盾する意志があるなど、多様なものがあることのほうが自然であり、画一になるということのほうが難しいとも思われますし、人が集まれば皆違うことが当たり前であると言えば当たり前でありますから、多様性を認めるというような意見そのものが奇妙にも聞こえます。つまりは、画一的に統括するという思想統制や強制執行と対比しているのかもしれませんが、そうした社会現象において用語を持ち出す場合、えてして定義が曖昧になってしまうものです。それで、この「多様性」についても、定義をしなければ話が始まらないとも言えるのですが、それをしているゆとりはありません。いろいろな人がいてよい、というくらいの、「多様性」というややこしい言葉を使う必要がないくらいにぶっちゃけ単純な軽い意味でスタートしてみようかと思います。あまり厳密な議論を期待しないでほしいということです。
 
推察するに、「多様性」は「自由」に限りなく近い方向で私たちは用いているのではないかと思います。当然「自由」のほうが広く深い概念です。その「自由」についてですが、たとえば「自由はないという思想」があるときに、それを認めるかどうか、というパラドクスを考えてみるだけでも、慎重に考えるべきことが分かります。もしその思想を認めるならば、自由はないという説を支持しなければならず、もしその思想を認めないならば、自由ではなく制限をかけたことになってしまいます。
 
「多様性」にも同様のパラドクスが生じます。「多様性を認めないという思想」を認めないならば、もはや多様性を主張していないことになります。このように、原理的に問題が含まれることは、もしかすると論理の遊びのように見えるかもしれませんが、これを行為のほうに結びつけると、私たちは自己矛盾を経験することになるでしょう。人間は、それほど原則に忠実に生活したり思考したりするわけではありませんから、たとえば「私は寛容だ」と自称する人間が、傍から見ると他人に不寛容であるということはざらにあることです。だからその人はけしからん、とするつもりはありませんが、しかし少しばかり自分の言動を反省(先ほどと同様に道徳的な意味ではない)する視点を持ちえない故に、何らかの権威のある人が、自分は寛容だと自惚れていることは、周囲にとっては大変迷惑です。哲学者というものは、この反省に慣れた者のことをいいます。だったら世の中の人は皆哲学者になってほしいと思います。自分の主張が自分に適用されることは想定しないで平気で無責任なことを言い放つことをやめただけでも、ずいぶんと社会は変わるだろうと思います。ある本によると、日本語の構造の中にその傾向が元々あるというふうにも考えられますが、言語問題はさておき、「それで自分はどうその問題に関わり、責任をもっているのか」について「関係がない」としか答えないようなあり方を止める、それだけでも世の中を変えるに十分な契機となります。これがあまりにないのです。
 
自分の罪には気づいていなかった、それがかつての私でした。それくらい、自己認識というのは難しいものです。それができない人を直ちに非難しようとは思いませんが、どんな小さな組織においてでも、そこで力を揮う人が反省を知らないようなことがあったとしたら、気づいてほしいと祈る思いがします。
 
「多様性」の反対概念は何でしょうか。普通に考えられるように、それは「画一性」あるいは「均一性」と呼べるものとしましょう。すべての恐らくは価値を一つにしようとすることでしょうか。個性を認めないという意味でも用いられる言葉です。近代自由主義の世界観に浸っている私たちからすれば、それは苦しく辛いことのように見えます。戦前戦中の社会状況をそのように捉えることもできるでしょう。
 
しかし、そのような画一性は、実のところ必ずしも苦痛ではないと考えられます。出る杭は打たれる、という諺のある環境では、他人と同じようであることのほうが、遙かに善いことのように通例考えるものです。そんな諺がなくても、他人と同様であることのほうが安心できます。行列のできる店と客のいない店と、どちらで食事をしたいでしょうか。大勢と待ち合わせをしていて、いつまでも自分が独りであったときに、不安を感じないでしょうか。赤信号ですら、皆で渡るならぱ怖くないわけです。誰かが塀の上に空き缶をひとつ置けば、他の人もどんどんそこに置き並べていくという現象もあります。
 
人は、自由を求めて近代の権利を掴んできましたが、実際自由は重圧でありました。自由を単純に喜んでいるほうがおかしいのだということを多くの哲学者が指摘しました。そして自ら自由だと思い込んでいることの恐ろしさを、私たちはヒトラーの時代の熱狂の中に、痛いほどいま知ることができます。大衆なるもののその危険も、指摘されていまなら分析できますが、だから現代ではその危険が去ったとも言えないものでしょう。人はこうして、自ら責任を引き受け背負う生き方に堪えられず、しかしなおかつ自分は自由だという幻想に浸りたいがために、何者か悪しきものに支配される実際の姿に気づこうともせず、それは自由の成果なのだという欺瞞の中に閉じ込められるようにもなりました。
 
凡庸な精神こそが危険であることも、すでに指摘されています。自由だと思い込みつつ、自らは判断せず周りと同じことをしていたほうが、責任を負わずに済むという打算を踏まえて、それでも自分は自由にそれを選択したのだという気になって安心する、そんな構図もあります。洗脳を受けている人は、自分が洗脳されているとは気づきません。気づこうともしません。自己保身が本能的に働くのか、もしそれに気づく他人がいればそこから見て、あるいはその後かつてのそのような自分を振り返ったときに分かるときまで、分からないのです。だから私はまた、キリストに出会う前の自分がどのような者であったかをようやく知ることができるわけです。かつてその時には気づきませんでした。このことは、信仰を与えられたからもうそのようなことはない、という保証にはなりません。むしろ信じたから自分の判断はもう何でも正しいのだ、と神からお墨付きでももらったような気持ちで振る舞うことのほうがよほど悪質です。今度は自らに神的権威を自ら与えるという暴挙に出ることによって、よほど害悪を世に施すことになります。そんなことがあるわけない? 教会の歴史を振り返れば、これで説明できることはいくらでもあるはずです。いまの教会や信仰者が例外であると考えるほうがよほど不自然であるし、そのように考えているとすれば、間違いなくそれは歴史に学ばない危険なことであるにほかなりません。
 
自分は自由だと言いながら、実のところ判断を他人に任せてしまう。何か悪い事態が起こっても、それは自分の責任ではなくなる安心感がそこにあります。他人とは違う言動をするということは、そこから生じたことについて自分が責任を負わなければならないということを意味することを知っているからです。そのようにして、他人の陰に隠れていく大勢の集団が、揃いも揃って狂った道に曲がっていくということが起こります。そういう歴史があったと認めざるをえないのではないでしょうか。自由を尊重すると主張する人も反省してみましょう。誰か他者の自由を極端に制限していませんか。自分には自由があるが、ある特定の相手には自由がない、ということをさも当然の真理のように、権力をもつ者が言っていませんか。
 
しばらく「自由」という概念を軸に見てきましたが、これを「多様性」に戻しても、同様な話の展開が可能ではないかと思います。自分は多様性を尊重している、そのように自負することが、いわば自画自賛の状態にほかならないというケースが、傍から見ると分かることがあります。ご当人は、多様性という当然の美徳を言っている自分に酔っているだけなので、自分を批判してはいけない、とムキになるタイプです。自分に甘く他人に厳しい、という人は、身近にけっこう思い当たるのではないでしょうか。
 
自由にしろ多様性にしろ、自分がそれであるならば、他人もそうだとすることを前提としなければ、話が進みません。問題が起こるのは、自分は特別だとしている場合です。そこで、自分を特別にしないこと。これが反省という考え方です。ですから、多様性を尊重するということは、多様なあり方が自分と無関係にそこにあることは当たり前だと受け止めるだけではありません。その多様なものと自分とが出会って、それによって、自分とは何かを知ること、少なくとも知ろうとすることです。多様に出会うからこそ、自己を問うことができる。もし自己を問うことなく、多様がある中に自分もなんとなく紛れて隠れていようとするならば、あるいは最悪、多様性の社会はいいなぁと自分がその中にいることを忘れて世界を手玉にとって眺めているだけのようなあり方をするならば、それはまるで神の目を隠れようとしていることのように思われます。もし自分を問うことがなく、多様性を認める自分を自画自賛するならば、他者を圧迫している自分に気づかないという、笑えないほど深刻で皮肉な状態に陥りかねません。この情況には、その人だけが気づかないのです。被害者の痛みは、加害者が知ることがないのと同様です。
 
多様性ということには慎重な態度が必要です。その言葉を誤解するある人からは、なんでもありという勘違いをされるでしょう。そこでそれはいけないと高圧的にこちらが出れば、それはもはや多様性を認めていないということになります。だから、なんでもありじゃないじゃないか、と強弁する声に、皆が「画一的に」従っていきます。結局、私たちは羊のように、尤もらしい意見に追従しやすい者なのです。「いろいろな人がいて、いろいろな考えがあってよい」ということを理念とする「多様性」であるかもしれませんが、いつしかどこからかずらしがかかって、「いろいろな人がいるが、これは認めない」が混じり始めることにより、何らかの一定のかけ声に一様に流されていくというのが、近代以降に特に見られる危険な構造でした。いつしか全体主義にさえなっていったのです。
 
揶揄するわけではありませんが、「多様性」という価値観に「画一的」になろうとする傾向があることを弁えないでいるのが、最も危険なあり方だと言えないでしょうか。反省というのは、それほど必要なことなのです。念を押します。多様性に触れることで、自己を問い、自己を知る、知ろうとすることが、まず必要だということです。自分は例外ではない、という、ごく当たり前の原則に気づき、自ら従うことです。
 
さらに言えば、「多様性を認める」というような言い方そのものに、実は危険性が潜んでいることを見破る必要があります。「多様性」は事実なのであって、こちらが認める云々のレベルのものではないはずです。多様性は元来つねにすでにそこにある前提です。わざわざこのようなことを持ち出すということは、画一的均一性の危機感が強いことの無意識的な現れであるか、それともまたそれを認めてやるからありがたく思え、というような場面であるかのように思えます。でないと、「多様性を認める」というような表現は出て来ないのではないでしょうか。
 
そうした背景を踏まえた上で考えたいのですが、私には、聖書で神は「ひとつ」になるように、繰り返し告げているように見えます。急がないでください。その意味が、「画一性」や「全体主義」でないということは明らかです。だからこの「ひとつ」というのが何であるのかを問う生き方のほうに、魅力を感じます。それが故にこそ、体には各部の役割があるという、パウロの好きな喩えが生きてくるように思えてなりません。つまり、神の「ひとつ」の原理の下に、初めて「多様性」があるのではないか、と。いきなり私たちキリスト者の目の前に、「多様性」の原理が、あるいは「自由」の原理が、神よりも聖書よりも、キリストよりも根底的にあるわけではないのです。たとえその存在が事実であるにしても。
 
いやいや、そんな意味で自分は「多様性」という言葉を使っていない、とまた自己弁護の声が聞こえてくるかもしれません。そうです。使う言葉の概念規定が曖昧であるからこそ、議論が噛み合わないというのは常識です。中には、こういうやり方もあるでしょう。「多様性を大切にします。だから、LGBTを認めます」と宣言しつつ、「だからこの意見についてはもうとやかく言わないでください」として、さらに深く検討する声を発させない。ここですでに「多様性」という言葉の表す意味が自分に都合のよいように自在にすり替えられています。こういう論理は政治の世界ではよくあることです。これをほぼ自覚してすり替えるのが、政治の権謀術数というものであり、弁論術と呼んでもよいものです。ここでは「多様性」という無難な原則を掲げることでそこから先の細則をすべて正しいとして反論させませんが、自分が多様性を潰しているということに気づかせないようにしています。
 
このように「多様性を認める」というような、レトリカルな表現を以て優位な立場から宣言することは、実は反対意見を封じているわけで、そのため自身の掲げた「多様性」の原則が自らの言動については適用させないトリックがあります。自分が語ることは、相手を縛りはするが、自分はそれに縛られない。このパラドキシカルな構造をさも当然のように言い放ち、気づかない相手を言いくるめる。これは意図的でなくても、人間のすることのうちにいつの間にか入ってくることがあります。ひとは、自ら意識せざるとも、自らを神とする罠に陥ります。そのように、何者かに操られることになります。それは巧妙なので、自分では気がつきません。
 
最後に逆説的に言うならば、この罠から「自由」になるのは、非常に困難なことです。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(マルコ9:29)とあるとおりです。しかし祈りとは自分が何も考えずに他人に考えてもらうことではなく、むしろその逆ではないかと私は考えます。私たちは考えなければなりません。そしてまず気づかなければなりません。その上で、自分の説に固執しない、それを唯一の正義としない、という神への信頼をつねに懐いていること、に近いのではないかと捉えたいのです。このような私の暴言から皆さま一人ひとりが、何か刺激を受けて考えてくださることを願っています。そうすれば、教会は変わります。一人ひとりが――まずは私が――変わり、リバイバルが起こります。そう信じています。



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