喜びの手紙
2019年6月9日
フィリピの信徒への手紙は、渾名として「喜びの手紙」とも呼ばれます。「喜びなさい」という言葉に溢れています。
あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。(2:18)
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。(4:4)
さも楽しそうに聞こえますが、考えてみましょう。「喜びなさい」という言葉を投げかけるのはどういう場合なのか。いま楽しそうにしている人には言わないでしょう。とても喜べないような情況にある人に向けて語るなら、まだ分かります。そう、このパウロは、自分自身、喜ぶなど不可能な中にあったのです。
パウロが書いた手紙は新約聖書の多くの部分を占めます。昔は、他人の名前で著作することはむしろその方に敬意を献げるかのように考えられることもあったようですし、また権威ある名前を冠して、その著作も権威あるものとする目的もあったでしょう。パウロ本人の手でなく、いわばパウロの弟子や後継者としての役割の人が、パウロの手紙や思想をよく考えて、パウロが書いたということにする場合もありました。こういうことは、ほかでも実によくあることなのですから、現代のように捏造だとかゴーストライターだとか言われる筋合いはありません。それで、パウロが書いたと文面にあっても、本当のあのパウロであるのかどうかは、丁寧に調べられてきたのでした。関心がある人は、どうぞどのようにしてそれが判断されていったのか、確かめてみるとよいでしょう。ここでいま言いたいことは、このフィリピの信徒への手紙については、パウロ本人であることは、まず疑われていないということです。パウロという人が手紙を書いたことがあるならば、この手紙は間違いなくその手によるものだと理解して差し支えないのです。
但し、手紙をどこで書いたのかという地名については、不明な点が多くなります。差し出しの住所が記されるわけではないからです。フィリピについても有力な説がありますが、いやこちらかも、という考えも強く、研究者が皆一つの意見に賛同しているのではないようです。ただ、手紙の内容に鑑みて、この書簡が書かれた場所がある意味において決まっているといいます。それは、獄中であるということです。
つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。(1:13-14)
もちろん、そうした設定すら創作されるという可能性がないわけではありませんが、この手紙をパウロのものとする限りにおいて、牢屋に入れられていることを疑う理由はありません。
こうして最初の問題に戻りますが、パウロは牢に繋がれている中でこの手紙を記し、送っていることを確認します。どのような情況であるか具体的には分かりかねますが、そういう状態であっても、自らの手で、あるいは誰か他人を介して筆記させることによって、手紙を書き送ることは可能だったと思われます。使徒言行録の記述に基づきこの場面ではないか、あちらか、などという議論もありますが、言行録にすべて書かれているかどうかも分からないものですから、手紙の背景の史実についての解明は難しいかもしれません。
けれども、現代と異なり、為政者や裁判官の匙加減ひとつで生き死にが決められかねないと思われます。人権思想もありません。いつ首が飛ぶか分からない日々、パウロは、懐かしの仲間の顔を思い浮かべながら、手紙を書く機会が得られました。おそらく第二回の伝道旅行と言われる旅の中で、フィリピ教会は形成されたものと考えられます。もちろん教会堂とは異なり、信じる者たちの集うこと、それがそのまま教会でした。建物を指すのではなく、共同体のための呼び名でありました。パウロとの関係は良かったものと思われます。但し、ガラテヤ書でもそうでしたが、律法を守ってこその救いだという、かつての考えが後から教会を掻き回すようなことがあったようで、パウロは心配しています。それでも、ガラテヤとは違い、フィリピの教会はどうやら、その危機を乗り切って、パウロの意に適うような福音理解に戻ってきているようです。パウロはそれで安心し、また喜んでいるようにも見受けられます。
ところがこのフィリピ書、手紙であるとしてゆっくり読んでいくと、話があっちこっち飛ぶようにも見え、またなんとなく流れがよくないと受け止められるようにも思われる場合がありましたので、実のところ別々の手紙がひとつに集められて編集されたのではないか、と考える研究者が調べてみました。少なくとも2つの手紙、多いなら3つの手紙に分けてみると、読みやすくなるというのが近年の意見です。もちろん私たちは、せっかく編集されて一つになっているのですから、一つの手紙として読んで差し支えないし、また、切り離して読むにときその切り離し方が本当に正当かどうかの保証もありませんから、リスクが伴います。それを敢えて思い切って別々に切り離して訳したのが岩波訳の聖書で、同じようなことがコリントの信徒への第二の手紙においてもなされています。この辺りの詳細な背景と理由については、訳出した青野太潮協力牧師に尋ねるのが一番よいでしょう。
しかし元の手紙がどのように分解されるにしても、獄中にあるパウロが、喜べと盛んに繰り返していて、手紙全体では12節にわたって、喜ぶことが書かれており、うち三回は名詞の「喜び」です。殺されることを覚悟の中、運命を呪いかねない情況の中で、パウロは自分も喜んでいるし、あなたがたも喜んでくれとしきりに繰り返します。このような生き方ができるのが、クリスチャンというものなのでしょうか。羨ましいような気もします。
昔子どもだったアダルトは、世界名作劇場というアニメ番組をリアルタイムで見ていたことでしょう。それに「ハウス食品」の名が付いていたころ、「愛少女ポリアンナ物語」という作品が一年間放映されていました(1986年、原作の邦訳は基本的に「パレアナ」)。牧師の父を亡くした少女が、引き取られた先で、父から教えてもらった「よかったさがし」をするのが印象的でした。どんな辛いこと、不幸なことが起こっても、そこに何かしら「よかった」と言えるものを探すという生き方でした。原作の表現ではこれは「喜びのゲーム」となっていました。「ゲーム」という概念は、私たちの思い描くものとは違い、あるルールに則り展開していくシステムのことを言う場合がありますから、喜びというものを軸にいつでも作動できる態勢を用意しておくことをいうのであろうと思われます。
作者のポーターがどうだったか知りませんが、このパウロの手紙をひとつのモチーフとして、パレアナの喜びのゲームを創作したのではないか、と私は個人的に思います。どんな中でも喜びを見つけ出すことができる、そこに神を信じて生きる者の強みがあります。
ところでこうして「喜び」という語を、クリスチャンは抵抗なく使いますが、今度は日本語の問題です。この語、少し堅くないでしょうか。例えば「喜び」という名詞は使うにしても、「喜ぶ」という動詞、使いづらくありませんか。「私は喜ぶ」という言い方を、日常生活でするでしょうか。そうでなく、同じことを表すのに私たちが使うのはたぶん「うれしい」でしょう。「私はうれしい」(もちろん日本語は主語を基本的に必要としないので「私は」をいちいち付けることはないが)なら頻発するはずです。
ところが「うれしい」は形容詞です。「喜ぶ」は動詞でした。この違いは、主体が誰であるかにより目立ってきます。私について言うときには「うれしい」を使いますが、「あなた」を主体には「うれしい」とは言いづらいものです。「誰それは」にも付けにくい。殆ど私の専売特許であるのが「うれしい」です。これを他人について用いるときには、「うれしがる」という動詞形を使うでしょう。
「喜ぶ」は、堅いから日常的ではないけれども、私が主体でも誰が主体でも客観的に使いやすい語です。「うれしがる」も誰でも使えます。動詞であれば私以外で通用するのでしょうか。目的語は必ずしも必要ではありませんが、動詞は何か目的語を求める場合があります。それは何かしら説明的になる傾向があります。それに対して自分に対して専ら使う「うれしい」は、何がうれしいのが説明を必ずしも要求せず、私の中で自然にそのようになるという状態を背景にしているように見えます。曖昧な言葉遣いでしかいまは言えませんが、「うれしい」は主観的なもので、「喜ぶ」はそれに対して客観的なあり方のように感じます。
パレアナもそうですが、パウロは、「喜ぶ」のほうを用いました。パウロだけの感情としてなんとなくにやにやするかのようなうれしさではなく、何らかの説明ができ、他人にも勧めたり、伝達できたりするようなものとしての「喜ぶ」ことを、ここで繰り返しました。辛さや苦しみに感情的に支配されてしまうのでなく、そうした説明できない事柄による攻撃があっても、愛が意志的に作用するように、喜びが打ち克つものとして与えられるのだ、というふうに受け止めてみたいと思います。
聖書を学ぶことは、なくとなく楽しいとかうれしいとかいうばかりでなく、何かがあったときにも、より確かなものとして自分を助け起こしてくれるような、意志的な強みを獲得する道であるかもしれません。気分や感情で流されてしまわず、立ち直ることができるターン、もしかすると、それが信仰あるいは信頼という絆であるような気もします。聖書を正しく読むとか知識を得るとかいうことを気にするのでなく、自分が聖書の主体である神と向き合い、そこから自分を生かす言葉を、確かなものとして受ける、それが聖書の言葉であってほしいと願います。そのためにも、聖書を読んでの感想を仲間と分かち合うこと、話してみること、聞いてみること、それが有効だと理解します。礼拝後に、メッセージについて分かち合うひとときをもちたいものですね。