「助けられなかったのか」
2019年6月9日
新聞はしばしば、このようなフレーズを用いて、悲惨な事件や事故を評します。尤もなようですが、非常に冷たい常套句のようになっていると私は感じます。
実際、多くの人が助けられていると思うからです。
大きく報道されるのは、悲しい事例です。しかし、そうならないように、実に多くの方々の労力が、あるいは犠牲が現実にあって、たくさん助けられている現実があるからこそ、報道される大事件が少なくて済んでいるわけです。警官の不祥事が報道されたら、すべての警官がだめなのでしょうか。教職員が逮捕されたら、すべての教職員がけしからんのでしょうか。そんなことはないはずです。逆に言えば、殆どの人が表に出ない苦労をして立派に務めを果たしているからこそ、事件にならずに済んでいるという視点を持ち出すことは、擁護に過ぎないでしょうか。
そのことは、先般の、保育所の職員が子どもたちを日々如何に守っているかが知らされるようになって、少しは理解されているように思います。それでも最初は、保育に携わる人たちが守れなかったという非難さえ飛び交いました。それくらい、何か事件や事故があると、傍観者たる大衆は、誰かのせいにしたがっています。マスコミも同様で、人々のニーズだという隠れ蓑をつけて、踏み込み過ぎた取材を重ねることがありますが、未然に防いだ事例について取材しようとする意図は殆ど感じられません。
見守り隊などという名で、朝夕小学生の登校を見守る方々が、交通事故ばかりでなく、犯罪の可能性をも摘んでいることは確実です。この方々は無報酬です。また、給与を受けるとはいっても、介護職の方々の多くは、労力に見合う賃金以下で、日々地道に誰かひとりのために働いています。こうしたところへのリスペクトが感じられないような、ひとつの事件が起きたことでそれ見たことかと社会問題だと急き立てる報道や世論、無責任な傍観者の批評が溢れている社会を感じて苦しく思います。そしてそれは、気軽に意見を呟けるようになった私たち自身が、そうしている、それに加わっている、という自覚なしになされているところが、最もたちの悪いところです。私もまた自戒を込めて綴ります。
事件にならないように誠実に尽力していることについては、表に出ないのです。しかしどうしても、何かが起きることはあるでしょう。それが起きたことで、多くの人々の真面目な労苦をけなすような視線を一斉に向けたり、また静かに暮らしている人々を苦しめたり追い詰めたりするようなことになる言動を無責任にとるということを、自分はやっていないかどうか、あるいはまた、そうやって苦しんでいる人を助ける必要を感じているのかどうか、問い直したい。問い直して戴きたい。
自分の気がつかないところで、多くの労力がなされている。そのことに敬意を払いたい。そうした感謝の心を、たとえば食事のときに、米粒一つひとつに、農家の方の苦労がこめられている、と以前は教えられてきました。ささやかな製品もそうして生みだされたものだ、と。安く買えればよいのだ、と値を叩くことが経済だと私たちは勘違いしているような気がします。コーヒーなど、フェアトレードという考え方が紹介されてきましたが、それでも浸透していく気配はないように見えます。少しでも安く得、高く売るのが経済成長だという原則しかもてないようなあり方が、果たして経済というものなのでしょうか。その言葉の元の意味は違ったはずです。宅配の人をこき使って、なおかつ配達料が高いなどと不平を言う私たちの生活は、何か狂っていないでしょうか。
見えるものに感謝できない心が、見えないものに目を注ぐことができるとは思えません。クリスチャンには、見えないところに気がつくことが期待されているように思えてならないのです。
元に戻りますが、「助けられなかったのか」この問いは、その労を負いその役割に携わっている本人が自問するならば、意味があります。犠牲者の家族が心から血を絞るような苦しみの中でそう叫ぶ言葉であるならば全くその通りです。それをまた自身への責任のように思う人もいるでしょう。それがまた苦しみを呼びます。できるならば、その方がご自身へ向けてそのようには思わないでいてくれたらと願いますが、何かしらそのような思いはなかなか消えないでしょう。そのような真実の言葉としてその言葉が発されるのであれば、私はただその横で黙っているばかりとなることでしょう。しかし、自分では何の貢献もしていないような傍観者がこの言葉を発するとき、それは自分を安全なところに置きながら、しかも善人ぶろうとする意図のもとで、誠実な人々に刃を突きつける言葉となります。
ひとを非難するよりも、自ら痛みを覚えつつ、言葉を発したい。だから、かの狡い精神を非難しつつも、自分もまたそれとさして変わりがないことを嘆く私は、心の痛い昨今です。