大水の深い底から
2019年6月7日
99人が自分を非難していても、1人が自分に味方して褒めてくれるなら、それを頼りに歩いて行くことができる。希望というのはそういうものでしょう。それだからまた、世の友われらを捨て去る時も……と歌うごとく、信仰を生きていくことができるのです。たとえ世界中を的に回しても、と歌うラブソングが心に響くのもそのためでしょうね。
良い方にとれば、そのように心の支えを得るように考えられるわけですが、さて、この構図は、いつも良いことばかりと決まっているわけではありません。自分が間違っている場合に、その間違いに同調する人がいたとしたら、むしろ少数派ヒーローにでもなったかのごとく、より堂々としてしまうかもしれないからです。
これらの違いは紙一重。ひとは弱いから、自分に自信がないときに、自分の味方がいたことで、心強くなる、という構造があるとして、その前提となる自分の言動が適切であるかどうかにより、進む方向がまるで変わってしまうことになります。
さらに問題は、その進む方向が、さしあたり正しく見えたから結局正しいと決まっているわけでもなく、さしあたり間違っていたから最後まで間違っているとも限らないため、事はややこしくなります。また、だからこそ、如何に人々から非難を受けたとしても、いつか分かってもらえる、と強気になることもできるわけです。逆にまた、このような事情のために益々自分に自信がもてず、弱気になり自己否定をしたくなるケースもあるでしょう。そうして何も言えなくなったり、自分を追い詰めていったり。
「引きこもり」ということ、また人々に対して、ふだんはあまり世間は気にしないようにしていますが、いままさに大きくクローズアップされています。当事者やその家族などにとっては、日々の苦しみであることもあり、またできるだけそう思わないようにしてなんとか暮らしているということもあるでしょうか。繊細な精神の持ち主が、自分をごまかしたくないと思うとき、誰とも交わりたくないと思い、理想の形を求めている、そんな心理で説明できる場合もあるかもしれません。
泥沼にはまり込んだままにならないように
わたしを助け出してください。
わたしを憎む者から
大水の深い底から助け出してください。(詩編69:15)
引きこもっている人が悪いとか、責任があるとか、そんなふうに、そうでない人々は口にしがちです。少なくとも、そのように発言する人がいるし、ネット上にも見られます。これにより、またその繊細な精神の持ち主は傷つき、ますますそのような世間に出ようとはしたくなくなることもあるのでしょう。あるいはまた、そんなふうに単純に決めつけないでくれよ、とお叱りを受けるような気もします。そう、人それぞれ、いろいろな考え方やいろいろな生き方があるから、さも分かったようなふりをすることは傲慢である、それは確かです。そして、その辛さを分析したような気持ちになっているとすれば、私は最も酷い加害者でもありましょう。
厳しい言い方をするならば、引きこもっている人のことを別に私は悪く言っていないのよ、という弁明ですら、その人を追い詰め、またその家族を追い詰めていることに加担している、というのが私の基本的な姿勢です。だからマスコミが自分の使命とばかりに根掘り葉掘り調べ上げて報道したり、善かれと思ってのことでしょうが、引きこもりの方々にどうすればよいのかをやんやと放送していることは、逆に当人や家族を追い込んでいるのだと断言したい。現に、神奈川の事件から、福岡、東京と一定の関連が推察される殺傷事件が報道されています。あのようになりかねないからいっそひと思いに……という事件は、マスコミと、そのマスコミを受け容れたりけしかけたりしている私たちとによって引き起こされたと言ってよいと考えています。報道されないところに多数のトラブルがあり、また悩みが深まっている家庭や個人がたくさんいることが予想されます。神奈川の事件を報道すればするほど、それが甚だしくなると思われ、そうした報道を要求している私たちも無関係ではないということになると考えるからです。本気で加担したくないのならば、報道をするなと視聴者や市民が、報道のあり方に徹底抗戦すればよいからですが、多少批判の言葉を出してみたところで、それで責任回避すると計算すること自体が、狡さの極致です。そう、私もまた。
引きこもっている人は、嘘にまみれた世間に交わらなくてもいい。でも、何かしら誰かと対話ができたらいいと願います。傷つくこと、傷つけることを恐れる気持ちは尊重するけれど、激しくなければ、許し合えるものがそこにできて、何かしら自分の外から自分に与えるものを受け容れる機会が生まれたら、どんなにいいだろう、と。もしも閉塞と呼びうるような情況があってそれがうまくいっていないのであれば、一方的でない、相互的な流れが生まれる出会いが、窓を開いて風通しがよくなるとよいかもしれない、と考える可能性を願ってはいけないでしょうか。
これはまた、教会や信仰といった世界でも、問い直してみたいことでもあります。確かに人と楽しげに会話をする。やたら盛り上がったイベントをする。でも、自分の考えに固執したり、ひたすら自分を護ろうとすることしか考えていなかったりする、何かしら閉じこもった魂は、実はかなりあるのではないでしょうか。自分でそうと気づいていない場合も含めて。
ひとりよがりの「福音」。ひとりよがりの「善意」。ひとりよがりの「寛容」……御霊の実とよく言われるものでも、「ひとりよがりの」という形容をつけることにより、ハッとさせられることがあるような気がします。「パウロの福音」とパウロは自ら言うこともありましたが、ある意味でそれも、ひとりよがりのものでした。それでもなお普遍的なものになっていったというのは幸運だったかもしれません。パウロが、異端だとか別の福音だとか考えていたものも、まさにひとりよがりの福音でした。それが結局どうなっていったのかということは、その当人にとっては計り知れないことであったのです。
では何を信じていいのか分からないではないか。そう、ある意味ではそうです。ひとりよがりの信仰が、ひとりでなくなると心強くなります。しかしまた、それは多数派であるから安心というわけでもありません。まして、多数派であるから正しいという理由にもなりません。少数派を思いきり迫害していくのは、歴史の常でした。現代の教会がそれから逃れた例外的特権を持っているわけではありません。
では何が正しいのか。それをここで決めるつもりは毛頭ありません。私たちは、このような反省を常に携えて、今日も、明日も、聖書に向かうのです。そして、自分の外から響いてくるかすかな声を、聴くように努めるのです。雑音や情報に引き寄せられるのではなく、一度引きこもって、それから、外からのものを待つのです。さしあたりできることは、そういうことでしかないように、いまは思います。