『学校の「当たり前」をやめた。』
2019年5月30日
『学校の「当たり前」をやめた。』(工藤勇一・時事通信社)
サブタイトルがタイトルの一部のように書かれていて、「生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革」とあり、これが内容を最も的確にまとめたものだと言えそうです。さらに表紙の下半分に、「宿題は必要ない。クラス担任は廃止。中間・期末テストも廃止。」とあり、これが具体的な事態ということになります。国語の答案としてはこのようなものでしょう。
それにしても、これがとてつもなく異常なことのように見えることは、中学校というものを少しでも知っている方には驚きだとしか言えないでしょう。私も驚きました。
中学を大きく変えようとしている校長自らが語るその変革の内実。麹町中学校というと、東京都千代田区立というあり方ですが、特殊な学校です。東大へ合格者を多く出す日比谷高校に毎年50人以上も進学させる中学です。予算も十分もらい、私立と見紛う施設がいろいろあるそうです。その麹町中学校に2014年に赴任した校長は、民間から来たのかと問われるほどに(そしてそこにこそ問題を提起しているのですが)、改革を行いました。それが表紙にあった、定期テストや宿題をなくしたことや担任制度を崩したことです。服装頭髪指導すら行わないといいます。このように、校則についても一から見直していろいろ縛りをなくしていったのです。
もちろん、改革の提言は、たちまち諸手をあげて受け容れられたというわけではありません。しかし、かつて山形で荒れた中学(これは本の最後のほうで書かれており、開いた口がふさがらないほど酷い状態だったことが分かります)を立て直し、長い教員生活を経て培った考えや信念から、学校で「当たり前」とされてきたことについて、見直しを図ったのです。
校長は、初の著作となるこの本で多くの実例や経過を示してくれています。その一つひとつに驚きを禁じ得ないのですが、要は、次の考えに基づいていると言えます。
・目的と手段を取り違えない
・上位目標を忘れない
・自律のための教育を大切にする
とくに、最初のものが大きな力であるように見えます。第一の目的を確認し、その目的のための手段を目的化しない、という考え方を言っているだけの本だと言っても過言ではありません。いや、それは至極尤もなことです。けれども、なかなか私たちの社会ではできることではなさそうです。目的のための目的とでも言わんばかりに、単なる手段が、いつしか理由知らずの「しきたり」「掟」となっていることの多い、組織たるものに、私たちは慣れきっています。以前何らかの理由で決めたルールが、その後その根拠も分からないままに、周囲の状況が変化してしまったにも拘わらず、なんとなく残り、前任者の遺したものを変えるに忍びないのか、ひたすら受け継ぎまたその次に渡していくということを繰り返してきた歴史が、私たちの身の回りにはないでしょうか。私はごろごろしていると思います。
小さな医院のある師長は、その医院でかねてから当たり前になっていた一つひとつのことに、検討の眼差しを向けました。疑問に思えばたとえば業者に問うなどして、それがどうしても必要なのかどうかを考えました。衛生上何が問題で、何が問題でないのか。無駄な作業は簡略化できないか。何故そうするのかを問い直しました。機能的でないと思われた看護師の制服も新しいものに替えました。こうして医院内での「しきたり」を改めるように努めた結果、無駄な残業もなくなり、患者にとってもスムーズなで負担が少なく、そして衛生的な環境が整いました。これは実に、ナイチンゲールの目指したものでした。ナイチンゲールは白衣の天使と呼ばれたのはほんのわずかな期間です。彼女は、このように医療改革を行ったのです。
お分かりでしょうか。私がこの場で申し上げたいのは、教会のことです。教会もまた地上で現実に組織を形成しています。あるのです。いえ、伝統を重んじる教会だからこそ、世間よりもよほど多いのです。どうしてそうなのか知れないままに、なんとなく昔ながらに続けていることが。もちろん、なんだかんだと理由は説明する人がいます。その理由が聖書的であるとか信仰的であるとかいう色に一度塗られると、牧師なり長老なりの権威者が、それを変えることに著しい抵抗を示すのです。あるいはまた、信徒も、自分が馴染んできたものを変えることになかなか賛意を示しません。教会では、発言内容でなく、発言者が事を決めがちになります。
たとえば明治期に欧米で歌われていた讃美歌が基準になり、オルガンこそが教会の楽器だという説がはびこり、電気楽器などいまだに悪魔の道具とばかりに礼拝では使わせないというところもあるという具合です。いえ、そういう教会があってはならない、などと申しているのではありません。あってもよいのです。しかし、多すぎませんか。事は音楽のことだけではありません。要するに音楽ひとつとってもそうなのだから、様々なプログラムやなにげない教会生活の一コマを切り取っても、どうしてそんなことになっているか誰も疑わず、それが聖書的で信仰的だという納得の中で、ただ単に受け継いでいるようなことが少なくないのです。
しかしまた他方では、世間で価値が転換されてきた問題についていち早く飛びつく場合もあります。LGBTの権利を守ろうなどというプロテスタント教会がいま多くなりましたが、かつて違法とし死刑まで行っていたのは間違いなくキリスト教でしたし、とくにプロテスタントは基本的に保守的でした。いつしかずっと昔から教会はLGBTの味方、正義の味方だというような顔をして声を挙げるようになっていやしないでしょうか。もし味方をするなら、私たちは、むしろ謝らなければならない立場であって、まず悔い改めなければならないのです。かつて戦争協力に関する責任を戦後も回避していた教会のその姿勢は、何も変わっていないように見受けられると思うのですが、それは私の偏見でしょうか。私はそのプロテスタントに属する一人です。
差別の問題には、自分が差別していることに気づきにくいという根本問題があります。たとえいま、LGBTを支援すると口にしている教会であっても、自分たちの「当たり前」に固執している可能性があるのではないでしょうか。いとも簡単に善人面をして、「弱い人に寄り添います」などと発言して、よけいに苦しめているということはないのでしょうか。欺瞞に陥っていないと言えるのでしょうか。そんなに簡単に「寄り添う」ことなど、できるはずがないのではないでしょうか。
学校の話からずいぶん外れてしまいました。戻ります。もちろん、伝統というものを軽視するつもりはありません。やはり理由や背景があって守るべきものというものもあるし、教会ならば聖書解釈の問題として慎重な検討を要することもたくさんあるでしょう。でも、よく見回せば、そして問い直せば、理由の分からないもの、また変えてしかるべきことが実はたくさんあるかもしれません。そしてその多くのことについて、手段が目的化しているのではないかという目で見つめると、案外多く当てはまるのではないかという気がしてならないのです。
最後に2箇所だけ、本書から短く引用します。
変革を拒んでいるのは、「法律」「制度」よりも「人」だと私は考えています。(196頁)
個人に自己犠牲を求め、個性を認めないような組織は、本質的に強くなれないと思います。(43頁)