粗忽長屋

2019年5月28日

八五郎が町で、土左衛門(または行き倒れ)を見る。おや、これは同じ長屋の親友、熊五郎ではないか。ああ、なんてこった。慌てて長屋に駆け戻り、まだ寝ている熊五郎を起こします。てめえ、死んだのも知らねえで、よくもそんなにのうのうと寝てられるな。まだ死んだ心持ちはしねえんだが……。八五郎は熊五郎を連れて死体のところにまっしぐら。熊五郎、トホホ、これが俺か、と泣くことに。
 
でも兄貴、と熊五郎がふと呟く。「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺はいってえ、誰なんだろう」
 
おなじみ落語の「粗忽長屋(そこつながや)」ですが、笑い転げてふと我に返ると、深刻な問題に気づかされます。
 
私たちはしばしば「自分探し」をします。若者には必ず起こる現象として、昔からあったのはあったに違いありません。しかし、一時マスコミが取り上げたからなのか、流行したからマスコミが取り上げたのか知りませんが、世間でさかんに「自分探し」が言われたことがありました。それは決して一時のブームなどではなく、ここのところ多くの人の底流にあるテーマとなっているような気がします。
 
かつて親の稼業を継ぐだけの人生、女は女としてどうあるべきかが決められていたような社会、その中では、自分とは何かを探したり、問うたりする必要が少なかったかもしれません。私たちが自由の海に落とされ、自由に選んでいけるのだと突き放されたのは、良い面ももちろんありましたが、人間を不安にさせました。自分は何をすればよいのだろう。いったい自分は何者だろう。アイデンティティの危機に陥ったのです。
 
「ほんとうの自分」を探すというのは、カッコイイように見なされることもありましたが、やってみると、そのしんどさが分かるものでしょう。ある意味でそれをごまかさずに、誠実に問い続ける人が、人々とうまくやっていけずに、変人と見られたり、引きこもったりしているのかもしれません。いじめられることについても、関係がある場合があるかもしれません。
 
日常の楽しみに任せて真剣に人生を問うことをせずへらへら生きて自分をごまかしているような生き方を、ハイデガーは問題とし、本来的な自分を知るというようなあり方を提言しましたが、それはその哲学のほんの一部であったにも拘わらず、分かりやすいそこだけが独り歩きし、哲学が人生論のようにもてはやされた時代もありました。それは「ほんとうの自分を探す」という、真面目な問いをもたらすことにもなりましたが、「ほんとうの自分を探す」、その一種の幻想に誠実になればなるほど、抜け出せなくなる虞がありました。
 
それは悪いことではないのです。けれども、ごまかすことでなく、そこを乗り越えていく必要があろうかと思います。自分を探す。それは結構。しかし、その探しているのは誰だろう。誰が、その自分を探しているのでしょうか。その主体が、やはり「自分」でしかないのであれば、「自分」が「自分」を探しているという構造は、かつての観念論が探究した自我の問題に重なってきます。すでに前提とされている「自分」がそこにいるため、探す対象としての「自分」とそれは一致しなくなってしまうのです。これを以て自我の分裂とみるか、それとも自分探しが不可能な構造であると諦めるか、いろいろな道がそこから分かれてくることでしょう。
 
敢えて私の見解は述べません。皆さんが「自分」で考える機会をお持ちください。ただ私がいまここで言うのは、私たちがさしあたり、熊五郎である、ということです。
 
「探されてるのは確かに俺だが、探してる俺はいってえ、誰なんだろう」



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