牧師夫人
2019年5月26日
キュリー夫人、ボヴァリー夫人、蝶々夫人、チャタレイ夫人、などと並べていく中で、いまはやっぱりデヴィ夫人が一番知られているでしょうか。こうした中に並べるのもどうかしていますが、ほぼタブーのようになっていることについて、書く時がきました。牧師夫人についてです。
牧師夫人とは何ものなのでしょうか。こうした呼称を使わない教会もありますが、一定の年齢以上の信徒は、この言葉が自然と身についていると思しき側面もあります。もちろん、それは男性である牧師の妻のことを指すはずです。
牧師は男性に決まっている、かどうかはこの呼称にさしあたり問題とはなりません。しかし今も猶、女性が牧師になれるかどうかなどといった話をしているグループもあると言いますから、これから触れることも、もしかするとどなたかの逆鱗に触れるようなことになるかもしれません。
時折、牧師夫人は教会の世話をするべきだ、という思い込みを見かけることがあります。教会の掃除をし、客を出迎え、食事や茶菓子の世話をし、子どもがくれば可愛がる……どうも「良妻賢母」の権化を期待しているかのようですが、そういう捉え方、以前は比較的普通に見られました。いまはさすがに減っているだろうとは思います。
教会にいつもいて当たり前。とくに女性信徒のリーダーとしてよくまとめ、教会を支える屋台骨のような存在。牧師夫人と呼ばれる先人には、そのようなタイプがたくさんいたことは否めません。しかも無給です。いくら働いても、そのことについては一切の賃金はありません。もちろん、そこに教会の財政事情が関わっているだろうことは予想できます。女性牧師が雇われている中で結婚を果たしたら、二人も養えないので退職を強いるなどといった、嘘のような話も先日飛び込んできました。こうした背景がある中で、牧師に給与を出している教会で、牧師夫人に出すものは何もありません。その上で、奉仕を強いられるというのが実情です。礼拝を休む自由もありません。他教会の礼拝に出てみることも、けしからんと一蹴されるだけでしょう。
かつてはこの牧師夫人の献身がが美談として扱われてもいたでしょう。夫が牧師なのだから、それが当然だ、というわけでしょうか。よく考えたら、梨園の妻(歌舞伎俳優の配偶者)とはそういうものだし、相撲部屋のおかみさんが、そういうところでしょうか。女性が集まらないところはそれぞれだいぶ違いますが。
おそらく明治期以降、近代化路線を進める中でだとは思いますが、女性は家庭に入り夫を支えるべきだというような家庭像が掲げられ、次第にそれが当たり前のようになっていきました。いまも右派の考えに凝った政治関係者や宗教団体が、三歩下がって歩く慎ましい三従の女性を道徳の理想のように言う、あるいは思っていることがありますし、それが日本の伝統だ、などと思い込んで宣伝することもあります。えてして日本の歴史と伝統などという言葉が出て来たら眉に唾を付けたほうがよく、自分に都合のよい時代の事情を取り上げて伝統と言っているに過ぎません。平安時代や奈良時代に遡ることはなく、江戸時代すらそこに含まれないことがしばしばです。こうした掲げ方をしている良妻賢母像を、同時期に入ってきたプロテスタント教会の牧師夫人に適用してしまったのだとしたら、なんだか不幸なことです。因みに、中国由来だと思われる「良妻賢母」も、かの国ではむしろ「賢妻良母」が本来であったのを、日本側が都合良く逆にしたという説明もあります。
不快に聞こえるのでごめんなさい。「子なきは去る」という言葉もあり、儒教に由来すると聞きました。旧約聖書でも子どもを産まない女性は生きる価値がないほどに扱われていた記事がありました。明治期には、そうした女性観や法律の扱いもあって、子が産まれない場合を含め、離婚率が非常に高かったことが知られています。尤も江戸時代もなかなかの離婚率だったという調べもありますから、そうした中で離婚をるすることも至って普通のことであった世情があったのかもしれません。そう言えば養子縁組もごく当たり前で、文豪の生涯を繙けば養子とされたなどの話はいくらでも出てくるような気がします。これも、高離婚率が一因であるとすると、間違いでしょうか。社会学者ではないので、この辺りは無責任に発言していることをお許し下さい。女性一般に対するお決まりの道徳観のようなものの背後には、隠されていることも多々あり、私たちはある一部だけをさも当然のことのように思い込まされている可能性があることを弁えておく必要があるということです。
牧師夫人に対する、一部のクリスチャンの固定観念が、もしもこうした背景に関係があるとしたら、そのことに気づかなければなりません。自分の思い抱いている牧師夫人像を当然の真実として前提すると、いろいろけしからんと思えるようなことが出て来ます。しかしこうして振り返ってみれば、国家政策の描いた道徳にうまくのせられているだけ、ということに気づくのです。そのような思い込みで、現実の牧師の妻を傷つけているとすれば、それは改めなければなりません。
牧師の妻がどういう精神状態でいるか、あけすけに呟いているツイートがいくつかあります。そのように明らかにしてくれてよかったと私は思っています。そうでもしなければ、公に出せないし、出さなければ誰もそんな気持ちに気づくことがなく、どんどん追い込まれていくということにもなるでしょう。大胆な記事で知られるキリスト教関係の雑誌にも、以前その立場からの本音が少し出ていたことがありましたが、その後繰り返して扱われることがないのが残念です。尤も、いま私がこのことを取り上げたのは、その雑誌の方がSNSで表に出してきたことがひとつのきっかけにはなっていますから、今後また議論に上ってくることを期待しています。そう、私はもっと表に出して然るべきだと考えます。それほどに、事実当人も言いにくいのですから、言える立場の者がもっと代わりに言わなければならないと思うのです。そして、だからこうしてタブーを冒すかのように、問題提起をしているのです。
そもそも、「牧師夫人」という呼称がよくないと私は考えます。元来、夫のものだという意味合いがあるとも言われますが、他方そうまでして批判するのは言葉狩りだ、という見解もあり得るでしょう。しかしやはり、夫の名が出されてそれに附属するものとして扱われていることは否めず、牧師がまずありきで、その牧師になんらかの仕方でつながる位置にいるのだから、牧師と同じ仕事をする必要はないが、その牧師を支え、牧師の仕事にまつわる生活面から社交的な世界に至るまで面倒をみる地位があり、また義務があるものと見なされるような呼称となっています。
中には、伝道師として訓練された女性もいますが、いわゆる一般女性である場合もいくらもあります。夫が牧師として通例表に立ちながらも、妻が伝道師あるいは牧師として説教も時折担当したり、あるいは牧師に事故があった場合に教会活動の継続に支障が出ないようになっているというケースもあります。しかし、そんな場合であっても、どうかすると、教会の小間使いのように扱われてしまっていることが珍しくありません。
誤解して戴きたくないのは、ここで一律に決めて言っているのではない、ということです。教会により事情は様々であり、様々な形態で牧師の配偶者が教会に位置していることは存じています。もちろん個人的にも千差万別ですし、教派や団体により考え方やルールも違いますし、どれが善でどれが悪だと言ってかかっているつもりもありません。ただ私たちが判断していることを振り返って戴きたい、また実際そのようなことを我慢している方もたくさんいるのだということに気づく機会となればと願っているのです。本来教会に対して特別な義務も何もない、一信徒として全く対等な立場にありながらも、牧師の妻というだけのことで、「〜すべき」と要求を強いるような考え方を、自分たちがいつの間にかしているようなことはないか、振り返って戴きたいということです。
牧師の妻は、確かに一種独特の立場にいます。しかし、牧師もまたそうですが、叫びたいことも叫べず、忍耐が強いられ、人からの要求ばかり高く、いろいろするように圧力をかけられ、それをしていないと陰で悪口を言われる、そんな弱い立場であることも事実です。普通の教会の仲間と接するように接し、だから何か特別なことをしてもらったらその旨感謝を示し、必要な助けがないか思いやり、精神的・霊的なケアも心がけるというように、信徒として愛に基づく交わりができないものでしょうか。
これがまた、イギリス王室ではありませんが、女性牧師がいて一般男性が配偶者という構図の場合には、また違った角度で問題があり、難しさがあるのではないかと想像します。私は直接そうした例に出会っていないのでいまは想像がつかないのですが。
なお、これらは私のいまの教会の姿を描いたようなところは少しもなく、特定の誰かのことを描いているというつもりは全くありません。ただ、これまで多くの牧師やその家族と触れあい、またお話をうかがった中で、いろいろなケースがあった点、参考にした例はあります。それぞれのご苦労について無知とまでは言えないまでも、実際に苦労を共にしたわけでもなく、またその悩みが分かったようなふりをしているだけのような勝手な発言でしかないとも思われます。途中に記したように、ご自分では発案しにくいことを、少しでも代弁することが許されるなら、という思いで、綴ってきました。誤解や失礼が多々あろうかと思います。どうぞお叱りをお願いします。このことでまた傷つけるようなことは慎まなければならないとは思いますので。