「べき」

2019年5月24日

「べき」は、「わたしは」にこそ似合う。
「べき」は、「あなたは」「あの人は」には似合わない。
 
ぼくらは、その似合わないほうばかり使いがち。
カッコわるいこと、この上ない。
 
かつて悪かった自分の姿に、気づきさえすれば、
まだ直す道があるけれど、
これがなかなか見えてこない。
悔い改めることの実践の難しさを、クリスチャンは知っている。
 
こんなことを言いながら、いまわたしが
「べき」などと言い始めたら、噴飯ものだね。
 
誰かを「べき」につなげたくなったときには、
いっそ自分を代わりにつけてみることにするよ。
 
そう心がけているだけで、少しはできるかもしれない。
無理だと諦めずに、挑んでみよう。
あの誰かならそれが「できる」と一瞬でも思ったからこそ、
その人に「べき」を付けようと思ったんだから、
わたしにも、その「べき」はできるかもしれないじゃないの。
 
そうしたら、新しい世界が見えてくるかもしれない。
わたしにとっての世界に過ぎなくても、
世界が変わるかもしれない。
 
「べき」は、「わたしは」にこそ似合う。
「べき」は、「あなたは」「あの人は」には似合わない。
 
十戒もそうだし、
神の命令は、えてして、「〜しろ」というよりも、
「〜できるはずだ」の響きに近いと言われる。
つまり、神は私たちに「べき」と告げているようなものだ。
 
相手に対して「べき」と言ってよいのは、
この神だけだとしたらどうだろう。
私たちが、誰かほかの相手に「べき」と言ったとしたら、
私たちが、まるで自分が神のように振る舞っていることに
なりはしないだろうか。
 
聖書は、自分を神とすることほど
大きな罪はない、と教えてはいないか。
それをイエスがやったと思ったからこそ、
人々はイエスを死へ追い詰めたのだ。
 
神を神とすること。
人を人とすること。
そのけじめを求める十字路に、私たちは置かれている。
 
「べき」は、「わたしは」にこそ似合う。
「べき」は、「あなたは」「あの人は」には似合わない。




沈黙の声にもどります       トップページにもどります