教会学校とこどもの命
2019年5月20日
こどもにお話を聞かせる。教会学校の教師のなすべきことの中心はそこにあります。先にご紹介した『若者に届く説教』(大嶋重コ)には、サブタイトルに「礼拝・CS・ユースキャンプ」と付いていました。そこでCS、つまりChurch Schoolでしょうか、教会学校で語る時の心得というふうにも読めることから、もしかすると、こどものためにもこれはヒントになるか、とお思いの方がいらっしゃるかもしれません。しかしこれはあくまでも「若者」なのであって、「こども」ではありません。こどもに対して届くことを考えるためにこの本はあまり寄与しません。
こどもに話すということには、どうしても経験を重ねることが必要となります。最初は誰も体験がありませんから、とにかく経験していく中で気づいていくことが求められます。他方、一定の知識もまた必要です。ひとりよがりは危険です。自分だけはうまく話せたように思えても、こどもに届いていないばかりか、実は傷つけていくばかりという事態にもなりかねません。要するに、報道で問題になる教師の事件は、こういうことが背景にあります。教師のほうはコミュニケーションがとれていたと思い込んでいながら、全然そうではなかったということであり、そこから信じられないような関係や事件へと展開していっていると説明できるように、私などはよく思います。
もちろん、こどもへの愛が大切だ、と言ってしまえば要するにそれで結論なのですが、愛も具体的な行いとなって現れるものですから、するほうは愛のつもりでも、受けるほうは迷惑であったり被害と思ったりというケースが多々あります。信じていると口で言いながら行いが伴わない例を、ヤコブは皮肉混じりに記しています。プロテスタント教会にいるからあれは藁の書だ、などと嘯いているところにこそ、このひとりよがりの愛が横行している、といったことにならないためにも、教育という事象や、こどもの心理や性質というものに、そしてまた教会学校で営むことの技術について、基礎知識は学び続ける必要があります。これを怠る教師に教会学校を委ねた教会は不幸です。こどもはもちろんのこと、教会も傷ついていくことになります。こどもを失う、あるいはこどもの魂を壊すことを、善意からやってしまうというのであれば。
私は、進学塾でこどもと一年中触れあっています。どんな話をすれば、あるいはどんな話し方をすればこどもの目や心がこちらを向くか、いわばそれが自分の死活問題です。さらにこどもか話を理解し、自らやる気をもてるようになり、実際問題が解けるようにならなければ、存在価値のない仕事に携わっているというわけです。ですからまた、それなりに心理学や教育理論、教材の使用法などは繙き、雑誌を含め、新しい考え方や実践の声を気にするようにしています。いつもしているからこそ、その記事の意味もよく分かります。
その私からすると、こどもに対して絵本をどう読むかについて、誤解している意見を以前聞いたことがありました。絵本の読み聞かせの実践と多少の学びをしてきた私から見ると、どうにもその意見は絵本と紙芝居とを一緒にしてしまっているように聞こえましたので、それは違うのだと少し説明しましたが、そんなはずはない、こどもは喜んでいる、とその方はご自分の絵本の読み方が正しいのだと主張されました。絵本の読み方については、いまどきではインターネットで検索すれば、たちどころにいくらでも教えてもらえます。もちろん、ひとつのセオリーがすべてだとは申しません。しかし、現場でこども相手に絵本を読み聞かせている人がたくさんのアドバイスをしてくれているのは、もちろん参考になるでしょう。結論からいうと、絵本により対象となるこどもにより、様々なケースが考えられ、こうすべきだ式の方法が決まっているわけではありません。それは、礼拝説教はこうすべきだとひととおりの説明ができないことを考えれば、当たり前です。しかし、意表をつくものがあったとしても、それはセオリーを知っているが故の刺激的な方法なのであって、セオリーを知らずして妙なことをしていては、それはただの無知であり、もしもうまくいったように思えたとしても、基本的には失敗です。それを長く続けていくことはできませんし、してはならないとも言えます。何らかのセオリーは知っておく、それを弁えておく、しかしその現場ではこのようであるからセオリーのここを変える――これならよいのです。先の方は、セオリーを全く知らない反応を示され、なおかつ、自分がしていることでこどもが喜んでいるのだからその方法がよいのだ、と信じていました。こどもが喜ぶことは何よりですが、会衆が笑いに包まれていたからそれはよい説教なのだ、と言ってよいかどうかを考えてみるだけでも、分かります。絵本の読み方について学ぶ気持ちがなかった、というところが問題だったのです。
教会学校、それが小学生までを中心とするものと想定して申しますが、担当するならば、それなりに、教育や心理についての学びが何らかの形で必要です。インターネットには誠実な声も発信されています。絵本の読み方についても、自己流や信念だけで突っ走ることは厳に慎まなければなりません。こどもの心を犠牲にしてまでも自分の意地から勝手流の実験を貫き通されてはたまりません。必要なのはプライドや大人の都合ではありません。そんなものは百害あって一利なしです。学びつつ、実践させて戴く。牧師の方々は当然お分かりのはずです。説教を続けていくというのは、そういうことであるからです。教会学校で語るというのは、こどもたちが中心の世界での出来事なのですから、学ぶ意思のない素人が、宴会芸の披露の場だと勘違いして営むことようなことは絶対にあってはなりません。教会の大人の都合で、入れかわり立ち替わりお笑い劇場のように開き、演じた大人のほうを労るような有様だと、残念ですが、こどもに何かが届くことから最も遠いところにいることになるでしょう。早く終わらないかな、というだけの余興かおつきあいのようにしか思っていないことでしょう。その子にとって教会とは、その程度の場所でしかなくなってしまうかもしれません。
きついことを申しましたが、これは「ひとの命」に関わることです。こどもたちを命懸けで守ろうとした保育士の話が、不幸な事故を通して世に認識されつつありますが、教会は果たして、そこに来ているこどもたちの命を、あの保育士たちに匹敵するほどに努力して、こどもの魂を、永遠の命を、守ろうとしているでしょうか。どうかこのことを、真剣に問い直して戴きたい。切にそれを願っています。