出産
2019年5月19日
わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。(ガラテヤ4:19)
真に受けて、パウロは出産をしたのか、などと驚く必要はありません。もちろん比喩です。ガラテヤの教会をつくり福音を伝えたつもりが、再び割礼が必要なのさという声を聞いて揺れ動いている教会に対して、そんな声に惑わされるな、もう一度大切な点を伝えるから、と緊迫の中にあるパウロの叫びであるわけです。
パウロは、この「産む」という比喩を適切と考えているらしく、幾度か口にしています。
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。(ローマ8:22)
人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。(テサロニケ一5:3)
今回は、いのちのことば社『新聖書辞典』の解説に沿う形で、当時の出産事情や聖書の出産に対する考えをご紹介しようと思います。
まず当時は、子どもを産むということが、夫婦の第一の目的とされていたという理解。いまでそんなことは言っていられませんでしょうが、聖書を読むうえではそれを踏まえて読んでいかないと、意味が分からなくなってしまいます。子どもができないということで悩む夫婦、とくに女性は、それが人間の価値をすべてなくすような感覚でありましたから、子が与えられるようにという祈りも、命懸けのものでした。自分は何のために産まれたのか、というアイデンティティを失う事態に遭遇していたことになるのです。産めよ増えよという神の祝福に与れないことは、自分の存在価値と重なるものでした。
出エジプトの記事のあたりで、繁殖力の強いヘブル人の赤ん坊を殺せという命令をエジプトの王が下しますが、助産婦たちは殺すに忍びなく、ヘブル人の女は助産婦が駆けつける前にもう産んでしまうのだと弁明するシーンがあります。果たして本当にそうなのかというと、もちろん助けるための方便も混じっていたことでしょうが、何かしら出産がスムーズであった可能性を否定することはできないでしょう。
エバたちの最初の事件により、女は産みの苦しみを授かることになりました。イザヤやエレミヤも、産みの苦しみを以て喩えることをしており(イザヤ26:17-18,エレミヤ4:31)、パウロもこうした預言書を踏襲しているのかもしれません。
この辞典の記述によると、出産は仰臥位(あおむけ)か、うずくまるようにしゃがむ姿勢をとっていたと考えられるそうです。産み台という何か台があったのかもしれず、助産婦の介助により自宅で出産したと思われます。しかし実際助産婦がいない情況での出産もあったことでしょう。衛生的な環境であることは簡単ではなく、乳児の死亡率も高かったことは間違いありません。本辞典では、古代の記録からすると死亡率90%とまで記していますが、果たしてどうなのでしょうか。実際幼児の墓が多く見つかっているのもこの根拠とされるのだそうです。
確かに日本でも、現代にいたるまで七五三を祝うのは、そこまで生き延びる子どもがいたら感謝だという考えに基づいていると思われますし、技術や環境を考慮すると無理もないことかもしれません。それどころか、出産する母親のほうもまさに命懸けであったことでしょう。それは現代でも決して克服されたわけではなく、3万人に1人の母親が亡くなっている点を蔑ろにはできません。それでも、百年前と比較すると100分の1にまで減少はしています。いずれにしても、命と引き換えに新たな命を産み出すということには、男のはしくれとして、敬意を表するほか何もできません。
新生児はへその緒が切られ、全身を洗い、七日間は清潔な布でびっしりと巻かれていたと考えられています。次の預言は喩えのために描かれた情景です。
誕生について言えば、お前の生まれた日に、お前のへその緒を切ってくれる者も、水で洗い、油を塗ってくれる者も、塩でこすり、布にくるんでくれる者もいなかった。(エゼキエル16:4)
ルカとマタイは、イエスの誕生について、詳しいエピソードを描きました。出産についてはあっさりと述べられてはいますが、産むということの背景を伝えてくれています。男として、軽々しく説明するような真似はしたくなかったのですが、すでに子が胎に宿ったときから母親となっている女性に対して、男性は、実際にその姿を見るまでは自分が父親だという自覚が薄い場合があります。あの名曲「こんにちは赤ちゃん」の歌詞は、男性が作ったものでしょ、と見抜かれた話を、作詞の永六輔さんが漏らしていたと思いますが、赤ちゃんを見て「こんにちは」という感覚はもたないのです、と指摘した女性は言っていたように記憶しています。半年余りを共に闘ってきた同志と思いその子を守りつつ、実に重く不自由なからだを抱え通してきた女性を、大切に扱うのは当たり前ですが、そのための「責任」というものをもひしひしと感じながら、男はけっこうおろおろと、どうしてよいか分からないのが通例です。せめて、子育てについては、女性の仕事だ、などという態度はとりたくないと思い、かつては時代に先駈けてきたイクメンを実践してきた私でありました。