バラが咲いた
2019年5月18日
熊本・益城に2カ月に一度訪れてカフェを開く営みに参加させて戴いております。来てくださった方が、その前日も、集会所で音楽の集いがあったと言い、そのときに歌った歌の歌詞を印刷したものを見せてくれました。その中に、「バラが咲いた」がありました。
もはや若い人々は歌えないような、でも一定の年齢より上の人はほぼ誰もが歌える、ヒット曲です。問題があるかとは思いますが、説明をするために引用します。
バラが咲いた 歌詞
歌/マイク眞木 作詞・作曲/浜口庫之助
バラが咲いた バラが咲いた まっかなバラが
淋しかった僕の庭に バラが咲いた
たったひとつ咲いたバラ 小さなバラで
淋しかった僕の庭が 明るくなった
バラよバラよ 小さなバラ
いつまで もそこに咲いてておくれ
バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラで
淋しかった僕の庭が 明るくなった
バラが散った バラが散った いつの間にか
ぼくの庭は前のように 淋しくなった
ぼくの庭のバラは散ってしまったけれど
淋しかったぼくの心に バラが咲いた
バラよバラよ 心のバラ
いつまでも ここで咲いてておくれ
バラが咲いた バラが咲いた ぼくの心に
いつまでも散らない まっかなバラが
皆で歌いながら、私は心を揺さぶられていました。これは福音のストーリーだ、と。とくに2節は涙が出そうでした。
ぼくの心は淋しかった。そこにキリストが来てくださった。ぼくの心は明るくなった。そんな1節に描かれたキリストとの出会いは、このぼくにとって、最初はただうれしいというばかりであったようです。これを経た上で、次に2節でそのバラが散ります。キリストの十字架の意味を体験するのです。落胆した弟子たちのように、悲しくなります。しかし歌詞は「散ってしまったけれど……バラが咲いた……いつまでも散らない」バラが咲いたと歌っています。散ったけれど咲いた、というのは普通に聞けば変なのです。けれども、十字架と復活を知る私たちにとっては、その逆説がある意味で当然であるわけです。キリストは十字架で死んだけれども、キリストは生きてぼくの心にいま咲いている、あるいは送られた聖霊がぼくの心に来てくださり、離れない。そしてもういつまでも次の死を迎えることがないのだ、と私には響いたのです。だからこそこれは「真っ赤な」バラであったのだ、と。
確かにどこが耳にしたような気がする。マイク眞木さんも何か教会に関係していたことがあるとかどうとか……でも今回調べてみて、こんなことも知らなかったのか、と自分に落胆したことがありました。作詞作曲の浜口庫之助さんは明らかにクリスチャンだったのですね。神戸の神港教会で洗礼を受け、植村正久牧師の拓いた富士見町教会で30年ほど前に葬儀が行われているとのこと。そのとき聞いていたかもしれませんが、すっかり心の中から消えていました。だから、この詩があるんだ、と腑に落ちたというわけです。必ずしも敬虔な生活を送った方ではなかったかもしれませんが、心の底にある神の光は、人を生かす言葉をもたらすものだと感じます。この詩には別の意味があるという声も見かけましたが、私は私で、ひとつの福音として受け止めてしまったので、さしあたりそのようにお伝えしておきます。たとえ独断に過ぎなくても、うれしく聞いたニュースは、よい知らせである、として。