なにがあっても (家族の日)

2019年5月13日

母の日の謂われについてはかつて詳しくお話ししたことがありますのでここでは触れません。アメリカの発祥の経緯からしても教会に相応しい行事のひとつですが、或る頃から、教会でもその日を強調しなくなる傾向があります。
 
それは、母親と誰もが良い関係にあるとは限らないからです。また、子どもたちに対しても、母親がいない、もちろん亡くなった場合もありますが、離婚して離れて暮らしているなどの事情があったり、また虐待を受けていたりすると、母の日という取り上げ方が残酷になる場合がありうるからです。
 
学校でも、少し配慮がなされてきました。が、依然として多いのに、小さいころの自分の写真をもってきて発表しましょう、とか、自分の名前の由来を調べてきましょう、とか、事情のある子には耐え難い課題が教育の名の下に押しつけられてきて逃げられないなどという情況に苦しんでいる子は現実にいます。
 
教会では、できるだけ強制にならないように、またそもそもが傷つかないようにできたらと願わざるをえません。この母の日にしても、子どもたちのためという訳ではありませんが、「家族の日」と名前を変える提言がなされています。もちろん、幸せな家族に住んでいるばかりではないということも考慮すべきです。一人暮らしや独身の方に重苦しく響く言葉であるかもしれません。
 
そこで、という訳ではありませんが、聖書でいう「家族」とは何かを問うメッセージが、一般的に多いことを挙げておきます。つまり、血縁関係だけが家族のすべてではない、というようなメッセージです。さらに言えば、より安心できる家族として、教会が神の家族としてそこにあるのだ、と教会論に関わって説き明かされます。
 
あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、
聖なる民に属する者、神の家族であり、
使徒や預言者という土台の上に建てられています。 (エフェソ2:19-20)
 
あなたがたは神の家族なのだ。教会共同体は、草創期から、信仰をひとつとした家族のようなものと見なされていたのでしょう。その見方はいまもなお健在で、この母の日を家族の日と称し、そこで神の家族としての教会を語る、というのはひとつのスタイルのようなものとなっていると言えるかもしれません。
 
ちょうど先週土曜日、この「家族の日」礼拝の前日に、NHK朝のテレビ小説(朝ドラ)の「なつぞら」で、この家族というキーフレーズが現れる、感動的なシーンがありました。ドラマを見ていない方には説明しないといけないのですが、ざっくりいきます。主人公の「なつ」は戦争孤児になりかけたところを、戦死した父親の友人に引き取られます。それが十勝の牧場でした。その義父泰樹がおじいちゃんと呼ばれ、頑固一徹な人物。孤独に開拓を続けた自負もあり、生き方に自信をもつ大黒柱です。なつは牧場の仕事を続け、牧畜を学ぶ高校生となりました。泰樹はそんななつを牧場の後継者にしたいと考えています。少なくとも牧場のためになつは必要だ、と。それで孫の中の長男照男と結婚させたいと願う。しかしなつが他の男の子と気が合うのを見て焦りからか、なつに直接、たとえば照男と結婚というのを考えてみないかと持ちかけます。血はつながっていなくても本当の兄として暮らしてきていたなつは、あまりに意外なおじいちゃんの言葉に絶句し、悲しみます。
 
そんな話をされたら、「もう家族に戻れんよ」となつは泣きます。なつは家族のひとりとして育てられてきたのに、結婚といった眼鏡で兄から見られるということになったら、「恥ずかしい」と悲しむのです。こうなると、もう元の家族として暮らすことはできず、意識してしまうに決まっています。だから「おじいちゃんは、わたしから、大事な家族を奪ったんだよ」と訴えます。泰樹はつい「おまえと本当の家族になりたい……」という本音で説明しようとしますが、その言葉が最悪でした。なつは、そんなふうに言うのは「わたしを他人だと思っているからでしょ」と訴えます。
 
泰樹はさすがに応えました。なつの言うとおりだとその場を去り、家族の目から離れ孤独で考えていました。そこへその娘、つまりなつの母親として育てており兄照男の母富士子が話をします。泰樹が落ち込んで、なつの言うとおりだからもう元には戻れないと嘆くのを遮って富士子が言いました。「それを受けいれるのも家族の務めでしょう」と。そして、次の言葉を強く告げます。「なにがあっても受けいれる、それが家族っしょ」
 
「家族」とは何か、そのつながりにどのような意味があるのか、心にずずんと突き刺さるものがありました。そして私はこれを見て涙を流しつつ、教会がメッセージを放とうとしている、神の家族というような捉え方が、このドラマに見事に描写されていると思いました。
 
なにがあっても受けいれる、それが教会っしょ。
 
昨今、この言葉とは正反対の事例がたくさん見聞されます。いっぱい例を挙げたいのはやまやまですが、そうするとまた関係者を傷つけることになるのでここでは申し上げません。教会の規律だか、落とし前だか知れません。神の前にきちんとしなければならないと理由を述べつつ、世間的に体裁が悪いという気持ちがそこにあるかもしれません。確かに害悪をもたらすことがなされたとき、教会共同体にとってよくないという場合もあります。本当にどう処分するか難しいものだろうとは思います。なんでもしていいよと甘くしている訳にもゆかず、なんとか祈り聖書の中から答えを探して、厳しい措置をすべきだと聖書は言っている、と持ち出すこともできるし、その口でまた、イエスの赦しの説教もしていることになり、どこかで心が分裂していないだろうかと案じます。二枚舌と批判されかねない情況がここにあるし、実際教会運営として難しいものがあるだろうと気遣います。
 
それでも、それでも、です。私たちはえてして、聖書ではない自分の感情や、世間の眼差しを動機として判断したことを、正当化するために、聖書の中から理由を探すような作業をしていないでしょうか。私たちの原理は、何なのでしょうか。  
なにがあっても受けいれる、それが教会っしょ。
 
重い言葉です。私も、この言葉が真理であるという出発点ないし到着点を定めるつもりはありません。裁くのは神であるという観点から、人が裁くのではないという考えもある一方、私たちに裁く権限が授けられているというのもまんざら嘘ではないからです。だからこれは、私たちへ問われていることだとしておきます。さも当然のように、どちらかの答えを出してしまうことがよいのではありません。私たちは結論を出せないものではないかとすら思います。ただ、問いは必要です。また、神に問われていますから、それへのレスポンスは必要です。安易に結論を出してそれを正当化するよりも、機あらば、幾度でも問い直していく、それがキリスト者の生き方として与えられた道ではないか、と皆さまに私から問いかけてみたいのです。

【追記】
14日、またお母さんが心に残る言葉を言ってくれました。
 
ひとりで苦しみたいなら、家族はいらないっしょ。
 
これも、家族を教会と読み替えてみましょうよ。教会がどういうところであるのか(あるべきか、でなく)、考えてみましょう。



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