兄弟
2019年5月12日
「今日の天気は?」「天気だってよ」――論理的にはトートロジー(同語反復)であり意味のない会話のようですが、現実にはこれで対話が成立します。質問のほうの「天気」は、天候一般を意味していますが、答えのほうの「天気」は、雨ではなく晴れだということを意味しているからです。言葉はこのように、その含む意味にずれがある場合があり、その点で誤解があると対話が進まないという場合があるものです。
「兄弟」という言い方についても、男性だけを示す場合と、男女を含めて示す場合とがあります。ギリシア語だと別語というよりも、名詞に「性」というものがあるために、同じ語の語尾を変えることで、男性と女性を区別することができ、似かよった語が並んでいるだけです。ただ、確かにマルコ3:31からの場面では、その両方が出て来ており、うち「兄弟」を表す語の指す内容が、二通りの意味をもたされているように見受けられます。
3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
31節と33,34節には「兄弟たち」とだけ書いてあるのに、32節と35節では「兄弟たちと姉妹たち」(原文のニュアンス)とありますが当然同じ対象を指しているのです。これらは代名詞を使わず、しつこいくらいくどくどと、同じ名詞を登場させています。神が、イエスが、という場合にはいとも簡単に「彼が」で置き換えることが普通で、いったい人間の誰なのか神なのか、判別がつきにくい場合さえあるのに、ここでは、一つひとつの言葉を提示することが必要であり、また重要であるように思われます。
それはともかく、この「兄弟」という言い方は、確かに日本語でも同じ事情ですし、その際、一方的に男だけを以て代表させるのは性差別だ、という考え方が近年強くなってきつつあります。ビジネスマンは、ビジネスパーソンというように、男性性を含む「man」を避けるのが次第に常識となってきました。逆に「看護婦」や「スチュワーデス」という、女性に限るような名称も変えられてきています。性別を問わない表現へ、言葉は傾いていると言えそうです。
聖書の世界では、この現代の考え方とは違う基準が通用しています。男だけで五千人いたなどと平気で言われ、またそもそもイスラエル民族の人数のカウントでも、女性は全く気にされていないというように見えます。女性は名前すら出されないというケースもしばしば見られます。人格ある存在として扱われていなかった事情が現れていると受け止められますが、しかし、それでも聖書の世界では、思いのほか、女性が尊重されているという考え方もできるかと思います。新約聖書でもイエスの身近にいた女性たちが一人ひとり名前で呼ばれていると言えますし、むしろ女性が尊重されているという場合も少なくありません。夫婦でも女性の名を先に出すということがありました。旧約聖書でも、女性の名前が巻の名になることもあるし、女預言者デボラが神の言葉を語るし、敵将シセラの頭に釘を打ち込んだヤエルや、続編ですが、アッシリアの司令官ホロフェルネスの首を掻き切ったユディトなど、英雄視された女性の物語もあります。
このマルコの場面でよく問題になるのが、「イエスの兄弟」というところです。普通に読むと、母マリアがイエスのほかにも子どもを産んだとしか読めないのですが、このマリアに特別な意味をもたせる読み方、基本的にカトリックからすれば、これはとんでもない解釈であって、マリアは永遠に処女でなければならないため、「兄弟」という言葉が、いとこなど親類まで含めて表す場合がある、という見解に立っているようです。つまり、ヘブライ語にはいとこを表す語がないために、代わりに「兄弟」という語を使ったというのです。「聖母の子として記されている箇所は、聖書には全然ない」(フランシスコ会訳聖書の注)と断言しています。ここでマリアについて議論する必要はないのでこれ以上はこの件については問いませんが、もちろんプロテスタント側では一般に、マリアを聖母と見なす必要を感じないために、文字通りの兄弟であると理解していると言えるでしょう。
しかしまた、同胞を指すために「兄弟」と考える場合は、確かにあったものと思われます。「もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。」(レビ25:39)というような、同胞を奴隷にしてはならないという旧約の律法は、他国人は奴隷扱いしてもよいが同胞はするなという立場ですから、一種の兄弟意識が打ち出されているのかもしれません。尤も、現実にはその同胞を奴隷とすることがまかり通っていたからこそ、そのような律法があるとも考えられ、事情は単純ではないことでしょう。負債についても「外国人からは取り立ててもよいが、同胞である場合は負債を免除しなければならない。」(申命記15:3)のような言い方がなされています。
さらに、異民族へも兄弟愛のような意識をもつべきであるような律法もあります。「あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。」(レビ19:34)というのは、自分たちがエジプトで奴隷の境遇にあったことを思い起こせという背景によるものですが、こうしたある種の思いやりのある社会常識というのは、当時としては珍しかったのではないでしょうか。もちろんこのことが、新約聖書で重要な中心位置に置かれたことは言うまでもありません。
ですから、イエスの教えにおいては、それまで同胞、仲間だけしか指すことがなかったであろう「隣人」という概念の表す範囲を広くしたと言えるし、それがついには敵にまで及んだと捉えざるをえないところがあります。もちろん、それを単純なテーゼとして、これまたひとつの律法のように掲げたり、あまつさえ他人に強要したりすることはできないでしょう。イエスもファリサイ派や祭司長たちに対して敵を愛するという単純素朴な接し方をしたとは思われません。パウロが、自らの命を狙うユダヤ人たちに単純な隣人愛を尽くす必要を感じたかどうか、そこは難しいものでしょう。
『三国志』に有名な「桃園の誓い」といって、劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを結ぶ場面があります。血縁関係に基づかない盟友関係をつくることですが、こうした事例は世界各地に、歴史上いつでもありうるようです。そして、現にキリスト教会にもそれが根付いています。同じ神の子どうしだから、信徒は横並びに兄弟姉妹であるのだという考えです。その根拠の一つには、今回上げたマルコの記事もあると思われます。それで、一種の敬称なのかもしれませんが、日本語では名前に、相手が男性であれば○○兄弟、女性であれば○○姉妹と呼ぶ習慣ができてきました。書き言葉においては○○兄、○○姉とするのが普通です。いつからそうなったのかは私は知りません。そのため、教会を訪ねてきた人が、教会に来ているのは皆血縁関係があるのかと不思議に思ったという話は(本当かどうかも知りませんが)よく聞きます。しかし尤もなことだろうとは思います。
逆にそれが、外部の人を排他的にする恐れがあると気づいた教会では、そのような呼び方をしないようにする方針をとりました。しかし英語ならたとえば Sister, Brother という語をつけて名を呼んだりすることはあるそうですし、諸外国語でもそんなふうだという話もあります。まぁ、キリスト教文化が一般的な社会では、もちろん自然なやりとりとなるのでしょうし、その表現が誰かを排斥するというような雰囲気とはまた違うでしょうから、単純比較はできないと思われます。狭い仲間内だけで通用する隠語的なものを重ねていくと、確かに外から入ろうとする者を拒んでいると見なされても仕方がないでしょう。いじめの一つの構図のようでもありますし。
他方、独り暮らしをしている人や、身内の人がいないといった人にとっても、教会という交わりが自分の「家族」であるという考え方は、とてもよいものであるかもしれません。2月にNHKのEテレ「100分de名著」の中で、オルテガの考え方として、国家と個人との対立の中間に成立する組織にはたいへん意味があるのだということが取り上げられていました。教会というものはその代表例である、と。不安定で危険な要素を孕む大衆は民主主義を破壊するであろうから、新しい共同体が必要なのだというような考え方です。教会は、そのような可能性を有するのです。私たちの教会は、この可能性に沿う方向にあるのではないかと私は捉えています。表向き「兄弟」という言葉を使うことの是非を問うよりも、信頼できる関係の中に教会があり、自分がそれを壊すことがないよう、自分を、そしてまた教会全体を、見つめていくことが大切であるように、私は考えています。