Facebookの教会的利用法

2019年5月10日

  Facebookのひとつの利点は、twitterと違い、長文が掲載できることです。このFacebookを、伝道のために、と用いている方がいらっしゃるかもしれません。こうしてネット世界に向けて呼びかけていると、誰かが見てくれる、誰かが聖書を求めてくれているかもしれない、という気持ちになるのでしょう。
 
けれども、Facebookは、限られた範囲でしか見られないSNSです。アカウントをもたない人には覗くことができませんし、検索にもかかりません。とくに問題なのが、これは若者のメディアではないということです。教会関係者の中には、若者への呼びかけとしてFacebookを考えている人もいらっしゃるようですが、残念ながら、それは功を奏するようには思えません。インターネットだから若者が見ている、と錯覚するのかもしれませんが、若い世代にとり、Facebookはあまり魅力のない媒体です。その上いま挙げたように、アカウントをもたない人には無縁の世界です。
 
つまりは、(大胆な言い方を敢えてするという意味で)Facebookは、仲間内の情報伝達の場でしかないのです。
 
それでも、当初Facebookもアピールしていたように、友達を増やしていき、ネットワークが拡がるということで、閉鎖的な「仲間」ではなく、どんどん輪が拡がっていくことを、利用者も夢見ていたかもしれません。確かに、そういう可能性がないなどとは申しませんが、聖書の言葉を記事にしていけば、誰かの目に触れて捕らえられて……というほどには、活躍の場がないと言わざるをえないのが実情です。
 
その上、Facebook側でも、問題を抱え込みました。それは情報流出です。会社が悪いとは一概に言えないのでしょうが、セキュリティの面で予想を上回るレベルで問題が発生したのは間違いなく、信頼を落としました。そのため、少し前からですが、Facebook側では、方針転換を打ち出しています
 
「ユーザーのニーズに合わせて、みなさまのためにシフトする」という建前で、「でも、ここ数年のユーザーの動きを見ていたら、リビングルームで親密な話をしたがっていることが分かった。それがこれからのネットだ」というふうにして、「プライバシー重視のリビングルームにシフト」する方針を発表しているのです。もちろん、これは友達の輪が拡がることを否定しているのではなく、これまでと別に、より内輪の集まりを推進するということであるのでしょうが、それで成立する広告事業の見通しがついたため、思い切った転換が可能になったということではないでしょうか。
 
ともかく、これにより、ますます、Facebookにより新しい伝道という方向性はとりにくくなりました。それでも、教会関係者の情報交換としては、大変優れた呼びかけのメディアとなりますから、そのような使い方は十分活用できます。たとえばもったいないと思うのは、教会学校でこのようなことを試したら好評だったとか、このような研修会を行ったとか、そうした「ためになる」情報がそんなに見られないこと。もちろん、「これは失敗だった」という経験や、「これは問題点だ」というような報告や意見も役立つことでしょう。私は専らそちらのほうに傾いているだろうと思いますが、希望も提供しているつもりです。とにかく、互いに教会関係者が、刺激を受けて、好い例を宣伝し取り入れるといった場として利用しなければもったいないと思うのです。イベントの宣伝もよいでしょう。時には政治批判もしたくなるかと思います。けれども、「徳を高める」「教会を建て上げる」のにたいへん役立つと私は考えるのです。
 
広く一般に聖書を知らせるという目的にはあまり応えられないかもしれませんが、仲間内で知らせ合うこと、それがドラッカー的には「強みを生かす」ということになるのではないかと思うのです。もちろん、それがすべてではありませんが、もっとそれを意識して取り組んでもよいのではないか、と。



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