手話で福音を伝えること
2019年5月8日
大型連休が終わりましたが、なんだか右へ倣えで一斉に連休という触れ込みに、どこか抵抗を覚えていました。もちろん、観光地や公共交通、商業分野や配達もそうでしょうが、全然連休などではないというお仕事の方も多数いらっしゃいました。介護や医療なども、連休している場合ではないと言えます。しかしなんだか連休が当然だというような報道や発言が普通になされるということは、もしかすると国民性なのでしょうか。
しかも、その中で元号と天皇の話題が以上に盛り上がっていたので、よほど国民統一を果たしたいという目的があるのかと勘ぐりたくもなりました。特にNHKが、そこまでやるかというほどに、皇室の話題ばかりで放送枠を潰してしまっていたのは驚きました。呆れた、と言ったほうがいいかもしれません。せっかくクリスチャンを取り上げたドラマが一時続くなど、何かしら変化があるのかと期待していた時代もあったのですが、その後は影を潜め、すっかりお国万歳の先頭に立っているような様子を呈していると見なければならないようです。
新元号が発表されたとき、手話通訳のワイプ映像が、官房長官が掲げた書の上にかぶってしまったのもお粗末でしたが、そもそもその新元号を手話通訳者が誤って訳した、ということ、ご存じだつたでしょうか。かなりニュースになっていましたが、もしかするとあまり関心がない方は報道に気づいていなかったことでしょう。
手話通訳者は、発表を聞きながら、それを「めいわ」と伝えました。新元号は、全く新しく聞く単語です。それを、予め伝えられることなく、正式発表のその場が初めて聞くという中でそれを指文字で伝えるというのは、このように間違いが起こる可能性があるものです。これほどの大事な報告について、秘密厳守なのかどうか知りませんが、手話通訳者にも知らせていなかったというのは、手話通訳というものについて、ひいては聴覚障害者という存在について、なんら理解をしようとしていない、と言われても仕方のない、政権側の失敗でした。
為政者も、パフォーマンスは好きです。かつて薬師寺道代議員による手話を伴う質疑に対して、はにかみ気味に「うれしい」とやって見せて引っこんだ安倍首相の映像も残っていますが、今回の元号発表の一週間前にも、同様にして、この議員への答弁の最後に「ありがとう」と口にしつつ、手話をして見せたことは一部に大きく報道されていました。確かに似てはいるが、左手が間違った、おかしな手話であったのです。間違ったことそのものを非難はしませんが、何度も薬師寺議員の質疑を受けてきているのですから、誰でも手話で最初に教わるはずの「ありがとう」くらいきちんと学べばよいのに、本当に手話が大切だという気持ちがあるかどうかが疑われて仕方のないパフォーマンスとなりました。あるいは、揶揄を交えるならば、本当にこの人は、ひとに感謝する気持ちを持ち合わせているのだろうか、と疑われるひとこまでもあったと言えるでしょう。
もちろん、他人事ではありません。自分とて何がどう分かっているということなどないのです。ただ、自分が手話を理解することを目的としたり、それを喜んだりするというわけではない、ということだけは改めて自覚するのでした。手話という言語を使う方々は、この社会のそこかしこにいるにも関わらず、見た目でそうとは分からないものだから、様々な権利を無視され、また情報が届かない情況に置かれて差し支えないままにさせられており、時には生命の危険があることも顧みられず、その他人権無視の状態となっている、そして私たちが無視している、という点だけはなんとかなくしていけるようにと願っています。そして、キリストの福音をどうにかして伝えたい、説明もしたい、メッセージを届けたい、という切実な思いをもっています。それはまた、教会が、そのような人々を追い払い、福音を受ける権利を踏みつぶしてきた――へたをするといまもそうしている――と考えるからです。
少々練習したところで、多くの聴者は、日本手話についてはカタコトの英語のようなものに過ぎず、日本に初めて来た外国人が日本語らしきものを口にするのとさして違わないようなものであって、それで福音を告げ知らせるというのもおこがましいこと限りないのですが、それでも、神の言葉は、神の心は、何か伝わる、あるいはろう者が懐いている誤解を解くこともできる、何かできる、そのために手話が使えたらよいのに、と思うのです。ろう者の中には、もちろんろう福音教会がのびのびできてよい、という人もいるし、広島のある教会のように、ろう者の牧師が手話でメッセージをするというような環境があれば最も過ごしやすい、という場合もありましょう。でも中には、聴者との関係の中でふだんから生活をしているわけですから、聴者の礼拝を共に経験していきたいというろう者もいます。響くサウンドで、賛美の音楽が好きだというろう者の場合だと、ろう福音教会のように音楽の要素を取り入れない教会はつまらない、という捉え方もするわけです。様々な選択ができるように、ろう者の様々なニーズに応える教会、また宣教を備えていきたいではありませんか。
手話通訳者は、そのために自らが福音を理解しなければなりません。福音を体験していることが最低条件になりますし、さらに、その福音を説き明かす力が求められます。通訳とは、右から聞こえた日本語を左へ手話に直す、ということではないのです。断じて。通訳とは何か、福音を伝えるとはどういうことか、これを踏まえて進まなければ、讃美歌を手話で表現できました、ということを喜んでいるのであっては、失礼な言い方を敢えてしますが、お遊戯を愉しんでいるのと変わりません。手話というメディアにより、何をしたいのか、何を目指して手話を学ぶのか、そこが極めて大切な要件になるはずです。そのようなパースペクティブで、手話を学び、また勧めていくことが必要だと、切に考えます。
さて、とにもかくにも日常が再び始まった、という方も確かに多いだろうと思います。各人が様々な時期に休暇がとれて、平均的に一定の人が働いている、といった制度であれば、妙な混雑も寂しい思いもなくていいかもしれないのに、とも思いましたが、みんないっしょ、というふうでないと気が収まらないのでしょうか。
だからまた、キリスト教信仰というものが、歴史上気味悪く見えていたのかもしれません。皆と一緒ではなく、自分たちだけの考えを主張するグループは、協調性がないと見なされ、何を考えているかしれない不気味な存在というわけなのでしょう。そのクリスチャンでさえ、特定の宗教団体にそのような気味悪さを感じたりすることがあるのですから、クリスチャンたちもまたそう見られていても何ら不思議ではありません。
私は手話は下手ですが、妻は比較にならないくらい上手です。それは技能があるという意味ではなくて、上に述べたようなスピリットにより、福音を伝えたいというただひとつの願いによって、手話を用いている、ということを意味します。このような手話観をもっている者は、何を考えているかしれない不気味な存在であるかもしれません。おとなしく手話に多くの人が興味をもってもらえたらいい、というくらいの思いで、手話を学び、広めるのが、最も良い活動なのかもしれません。でも、それができないのです。思いはただ、教会にろう者が来てほしいし、来たそのときに福音を語りたい、届けたい、そういうことだけです。そのために協力してくださっている方がいることが、なんという恵みなのだろうと思います。
私が分からないのが、教会で使う言葉、聖書の用語が、手話表現でどうするのか、いろいろ違うということです。方言があるのは前提とされていますので理解できますが、教会の用語が食い違うと、ろう者に伝えにくくなります。一定の標準語があればよいと思っています。日本ろう福音協会が、手話訳聖書を製作中です。できるだけろう者に伝わる表現を、実に綿密に検討しながら制作しています。それを標準とすればよいのでしょうか。私たちが福岡で習い知ったのと違うところもあります。また別のグループが使っている手話ともいろいろ違うところがあります。知っているこれらだけでも三者三様で、様々な違いが見られます。日本ろう福音協会による、標準的な表現がよいのであれば、それを取り入れてみることも検討したいと思っています。