それも偶像でありうる
2019年5月6日
今年も憲法記念日に、憲法についての集会が各地で行われました。憲法を、法のための法というメタ的な存在とすると、立法者や法の執行者を縛る性格が根底にあることは否めないだろうと思います。そこで、為政者が自分の利を算段して憲法をいじろうとすることがあれば、市民団体からも抵抗を示すということには大きな意味があるといえるでしょう。
しかし、時に耳に抵抗のある言葉も響いてくることがあります。「日本国憲法は絶対に変えてはならない」とか「日本国憲法は絶対だ」とかいうようなシュプレヒコールがあると、ちょっと待てよという気持ちになります。ほんとうにそうだろうか、と。
現にここにある日本国憲法が、絶対的に正しくてひとつとして変えてはならないというような言明は、やはり行き過ぎです。少なくとも私には、それは憲法を偶像としている、としか感じられません。そうでなくとも、それこそいま巷で殆ど訳も分からない人まで巻き込んで大騒ぎとなっている天皇の条項は変える必要がないのだろうか、とも思うわけです。基本的人権が天皇にないということは、天皇は人間ではないという前提が巧みに利用されているということにもなりかねません。
しかし私はここで、政治的な議論をしようとするものではありません。それは大切なことではありますが、どうでもいいことでもあると言ってもよいと思うからです。この、憲法を偶像としているという構造が、別のところにもあるはずだと睨むからです。
私はプロテスタント信仰に育まれ、その中で生きています。プロテスタント教会の考え方を基本線としているのは間違いないのですが、だからといって、プロテスタント神学者が、しきりに「信仰のみ」と繰り返すのを聞いて、どうしても腕組みしてしまうということがあるのです。何かと議論を自らの著書で展開する中で、どうしても「信仰のみ」がすべての根拠となったり、それに適合しているかどうかで真偽を決めようとしたりする、そうした場合があるわけです。
ほんとうに「信仰のみ」はそれほど大切な、すべての原理なのでしょうか。もしかすると、それを偶像のように扱ってしまっているのではないでしょうか。少なくとも自分が、そのフレーズを偶像としてしまっているという場合はないのでしょうか。
たとえばルターを神格化するあまりに、ヤコブ書を徹底的に非難し無視するような態度をとる、あまつさえヤコブ書は間違いだなどと言わんばかりの考え方をとることは、適切なのでしょうか。実際そのような論じ方をする本や、人はないでしょうか。
それは「聖書のみ」についても同じです。プロテスタント教会が、聖書の中の都合の悪いところは無視したり反したりしていることを、忘れたかのようにして、聖書に書いてあることは絶対だ、と自分の益のために必要なときだけ聖書を盾にし、他の時には聖書に書いてあってもそれは当時の文化だとか今は違うとか言ってスルーするというような場面を確かに見聞きするのですが、冷静に考えれば、それは「聖書のみ」と時に強く主張する自分のポリシーと完全に食い違っていることが分かるはずです。
自分に都合のよいところだけは聖書という権威を利用して、都合が悪いとなると現代の理論を根拠に聖書の記述を無視したり書き換えたりするということを、私たちはかなりやっていると思うのです。それは、二千年前に、聖書の学者や聖書に生きる人たちが、やらかしていた誤りです。イエスは命を張ってその誤りを分からせようとしました。でもなかなかそれは自分では分からなかったというのが事実のようです。それほどに難しいのです。ひとは、自分か何をしようとしているのかさえ分からない生き物なのです。
二千年前と、いまの私たちがやっていることとは、そんなに変わっていないと思います。進歩史観にそぐわないかもしれませんが、私たちが一見進歩したかのように見えるのは、たとえば科学的な成果に基づくのであって、同じく罪に陥りやすいし、逆に教育が行き届くにつれ、市民全員がファリサイ派になろうとしているのかもしれないとさえ思えます。
アブラハムとなると、四千年ほど以前の時代として設定されているてしょうか。アブラハムは、神に呼ばれて、息子イサクを献げようとしていました。神から約束を受けて授かった跡取りです。女奴隷に産ませた兄のイシュマエルを通じてすったものだの騒ぎもありました。やっとのことで生まれたイサクを、神は献げよと命じました。アブラハムのせりふらしいせりふは省かれ、その心中やいかにという感じで、いまやイサクを屠ろうとした時に、天使がその手を止めさせるのです。
アブラハムが殺そうとしたのは、何だったのでしょうか。ひとり子イサク? その通りです。でも聖書の記述はただの歴史じゃない。寓喩で読み解くのがよいとは思わないし、何らかの比喩として象徴的に見ることが適切だとばかりも言えないでしょう。そうした教訓めいたことを弁えながら、私はふと考え、試しにこう読んでみることも自分にはありうるな、と思ったことがあります。それは、アブラハムが始末しようとしたのは、規定のものとして与えられた掟ではなかったか、ということです。
生き生きとした命のある法ではない。ファリサイ派の解釈だと、人を殺す文字ばかりだったというパウロの考え方に近い構造の理解を、私はこの場面に重ねてみました。規則に規則と言い放った様子を記録したイザヤ書のように、決められたことだからそれを後生大事にしていなければならないというのではなく、血の通った理解で法を、ひとを生かすために使えるようにするため、古い硬直化した法を、アブラハムは一思いに処分してしまおうとしていたのではなかったか、と読んだのです。
パウロはそれを、愛の法則と呼びました。皆さまご存じの通り、「律法」も「法則」も原語は同じです。「法律」と訳してもよいし、一般に「法」として差し支えない語です。私たちがよく考えもせず、ただ教条的に規定を掲げ絶対的なものとして信じるなどというときには、愛の法則ではなく、まさに悪しき律法主義の精神でそれを用いている、あるいは用いられているだけのことではないだろうか、と言いたかったのです。
私たちの心の中に巣食う偶像は巧妙です。自分で気づきにくいし、気づいたとしても、そこからなかなか抜け出せません。思いにこびりついた偶像を破壊するためには、よほどの決意や行動が必要になるのではないかと思われます。我が子イサクを手に掛けようと本気で思った父アブラハムのような覚悟と徹底さを以て初めて、それができるというくらいに考えておきたいと思うのです。