律法

2019年5月5日

律法と福音との関係。新約聖書を理解するときの大切な対比ポイントです。とくにパウロの考えにおいては根本的な部分だと言ってもよいでしょう。かつては、律法に従うことが神の前に正しいとされることであり、救いの絶対的条件であったものが、イエスに出会ったことで、パウロの基準がその束縛から解放され、信仰による救いの原理に転換してしまったというのです。
 
ユダヤ文化の環境の中にいたパウロだからこそ、このような転回を経験したとも言えますが、私たちはその前提に立っているわけではありませんから、そのありがたさというかその衝撃といったものがどうしてもピンときません。どうかすると、にっこりと優しいイエスさまが好き、というくらいの意味で信仰生活をしている人がいるかもしれません。それもまたひとつの良さであるかもしれませんが、何をしても許されるといった、それこそパウロも予想している安易な道に陥る罠と背中合わせになっていることは、十分警戒していなければならないと思われます。
 
さて、その律法とは何でしょう。こんな奥深い問題を、すきまを埋めましょうか程度の軽い気持ちで解決することはできませんが、いつものようにざっくり捉えてみましょうか。
 
多くの言葉には、広い意味と狭い意味とがあります。狭い意味で律法というと、私たちが旧約聖書と呼んでいるもののうち、最初の5つの巻、いわゆるモーセ五書を指します。創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記の5つの書です。これはユダヤ教の最も大切な部分であり、子どもたちにも、これを暗唱するように教育します。儀式ではこの巻物を恭しく読むということが必須となります。これらはトーラーと呼ばれ、とにかく特別扱いされることになります。この言葉は、教えを意味すると言われています。
 
創世記は、どちらかというと物語です。世界の創造から人類の始祖、そしてイスラエル民族の祖先が神と出会う物語がドラマチックに展開します。
 
出エジプト記は、創世記の最後で飢饉からエジプトに逃れたヤコブの子たちの後の世代、エジプトで虐げられていたその民族が、神からの言葉を受けたモーセという指導者に率いられてエジプトを脱出する物語です。が、途中から様相を変え、生活や儀式のきまりがやたら詳しく規定されていく様子が記されるようになります。
 
レビ記になると、儀式もさることながら、生活の様々な規定や罰則などが延々と語られることになります。エジプトを出た民は、モーセを通じて、約束の地を目指して旅していくのですが、目的の場所にたどり着くのになんと40年もかかりました。その人数は、聖書の記述によると男だけで60万人。オーバーであったとしても、少なからぬ人数がぞろぞろと荒野や砂漠のようなところを通るのは、壮観であったことでしょう。
 
民数記になると、その旅の途中のエピソードもいくらか含まれてきますが、やはり様々な規定がたっぷり載せられています。刑法や民法が盛り込まれていますが、タイトルにあるように、民族の人数を数えて記録するという、いまの私たちからすれば殆ど意味のない記述もたくさんあります。単に人数だけでなく、その細かな部族毎に、何人何人と書き綴られているのです。しかし中には、お子様にはとても読ませられないような内容もありますので、聖書を読み与えるときには、どうぞお気をつけくださいますように。
 
申命記という不思議な名前の巻は、中国の聖書の名に由来すると言われますが、再び命ずる、と理解してよいかと思われます。まるでここまでの規定の総まとめのように、多くは重複したような形で描かれています。モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出した時のことから振り返られ、その物語の中で、様々な律法がもう一度記されます。そうして最後には、モーセが約束の地を目の前にして死ぬところまで書かれています。
 
この申命記は、ずっと後の時代になって、過去のモーセの時代のことを綴ったとする捉え方がいま一般的ですが、確かにそれはそうなのでしょう。紀元前7世紀ヨシヤ王の時代に、神殿から古い律法の書が発見されて国が主に立ち返ったという記録が歴史書にありますが、これが申命記を正当化させているのではないかという理解です。そうなると、書かれた時代の状況を反映しているのも当然ですし、この申命記には、その他の4つの書とは異なる雰囲気が漂っていると言えます。まとまってすっきりしていますし、分かりやすさもあるような気がして、私は個人的に好きな書のひとつです。心に残る表現にもいろいろ出会えると思っています。
 
さて、こうした律法の捉え方は、旧約聖書にあたるところを、律法・預言者・諸書に分けられた時の捉え方です(たとえばマタイではしばしば「律法と預言者」とこの2つに分けて表現することが多い)。これは細かな区切りだと言えますが、さらに細かく、この五書の中でも、いかにも法律のような規定の部分だけを意味していると思われる場合もあります。律法という言葉が、法律のほかに、生活習慣のようなものを含み示す場合があるためです。しかしどうやら旧約聖書全般を指していると読んでもよいように思われる場合があり、律法という考え方が、旧約聖書の骨子であることを感じさせてくれます。
 
律法は、神が与えた規定ですから、絶対的なものとされました。律法に違反すれば死が待ち受けてるいる場合があります。石打ちなど、酷い刑罰もありますし、それを民の中で裁き処罰せよというので、神はいったい愛の神などと言えるのかどうか、疑ってしまうこともあるでしょう。信仰という世界は、一方でこの厳しい裁きの神を想定しなければならないのは確かです。それでしかない、というのはまた問題なのですが、これを無視するわけにはゆきません。
 
だからこそ、福音とは何であったのか、私たちはイエス・キリストの意義を知るのです。今回はそこにまでは立ち入りません。あとは各人がイエスを通して、この律法を福音に変えるところを体験するしかないのです。
 
律法という言葉は、海外の訳を見ると、たいてい法則と日本語で別の言葉をあてている場面でも、律法と同じ語にされていることが多いものです。それもそのはず、律法も法則も原語は同じなのです。ローマ書7章に幾度も出てきますが、罪の法則とか行いの法則とかいう表現は、律法と区別する理由はさしあたりないのです。
 
考えてみれば、そのどちらにも「法」という字が使われています。たとえば信仰と訳している言葉も信頼と訳される語であるように、それらは「信」という同じ語で、それらにはその「信」という根本概念があるように思われますし、生活とか生命とか人生訳し分ける語も同様に「生」という概念でまとめられることでしょう。そのように、「法」という概念により一つとなっているものを、私たちの日本語では、律法とか法則とか場面毎に訳し分けるわけです。つまりは、訳を変えているのは訳者の解釈なのであって、場合によってはそれでよいのかどうか、怪しい場合があるかもしれません。また、読者がそれぞれに受け止めて解釈してもよいこともありましょうし、両方の意味を含めて味わったほうがよいかもしれないのです。それで律法も、「法」と心の中で唱えながら読んでみる可能性が出てきます。すると、新しい意味が見えてくるかもしれません。
 
そもそも律法というものも、特別な訳語を設定したのです。意味は法律なのですが、そうなると現代の法律と同じものとみなされてしまうかもしれず、ユダヤ文化そして聖書の中での特別な意味合いをはっきりと示すために、特別に律法とひっくり返した語を用意したのでした。平和をつくることであっても、政治的には和平と称することがあるように。
 
最後に、この律法は、神が与えたという意味で、絶対的な権威があると考えられていました。だからこそ、これに従わない者は最悪殺されるほどに、徹底糾弾されたのでした。絶対神が授けた法ですから、それに反するものは神に反するものであり、悪なのです。しかし、この法は、生活の法として、なかなか守れるものではありませんでした。裕福な者、教育を受けた者は、守れたことでしょう。しかし貧しい者や教育を受けていない者は、どうしてもそれを守れないということもありました。また、病気や生まれつきの障害のために、法の規定から排除された者もありました。法を守ることのできる立場の者は、権力をもったり、権威のもとに立つことができて、守れない人々を見下して、蔑むということも当然となっていました。それは神から見捨てられた者であり、法を守れる者は神に恵まれた幸せなものだという理解がありました。優位な側が勝手に定めた社会通念でした。
 
イエスはこれに対して徹底抗戦しました。貧しい人々はイエスを慕いました。中には、このイエスが、虐げられたイスラエルを、支配者ローマから解放してくれるものと勝手に期待する者もいました。しかし、法的に優位に立つ側からは疎んじられ、憎まれました。イエスがローマからの解放を果たせないようだと分かると、群衆も、この権力者たちの憎しみに同調し、イエスを殺す側に回りました。こうしてイエスは殺されました。大まかに言うと、福音書のあらすじは、このようであろうかと私は捉えています。
 
そこで、最後に考えてみましょう。その後の歴史で、キリスト教がたいへんな権威をもつようになりました。いまや聖書は立派な権威となりました。政治的にも文化的にも、聖書は尊崇される存在となっています。クリスチャンは聖書を信じ、聖書に従う者であるということで、理解されています。クリスチャン自らも、そう捉えているはずです。聖書はクリスちんの生活指針であり、信仰内容です。そうして、旧約聖書を含んでもよいのですが、とくに新約聖書は、私たちにとり、「法」となっています。
 
その結果、この「法」に書いてあることが絶対的なものと考えられるようになり、この「法」に従わない者は排除されるようになっていないか、見渡してみる必要があると思うのです。誰が排除するのか、それはクリスチャンであり、私たちであり、私です。聖書に書いてあるじゃないか、それに反するおまえは神に背いている、という声が、クリスチャンたちの発言にこめられていないでしょうか。聖書にはこのように書いてあるではないか、それに反するような発言をしているおまえはけしからん、というツイートが、クリスチャンと自称する人々の中からばんばん出されているように見えないでしょうか。互いに、聖書に書かれていることを根拠にして、裁き合い、非難を応酬してはないでしょうか。まさに愛が冷えているのではないでしょうか。
 
つまりは、イエスが徹底的に対抗した、あの人々と、同じことをしていないでしょうか。
 
律法ということについて学ぶとき、この視点だけを外してしまう罠があるように思います。イエスの福音、そして愛というものは、それとは正反対だ、と言うことを弁えつつ、聖書とは何か、イエスとは自分にとり誰であるのか、常に自らに問い直しながら歩んでいきたいものだと考える私です。



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