かわいそう
2019年5月4日
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け……使徒信条を口にするたびに、この人物の名を挙げることで、抵抗を覚えることがある。そんな声をよく聞きます。繰り返し悪人のように言われてかわいそうだ、と。気持ちが分からないわけではありません。しかし、私はポンテオ・ピラトをかわいそうだなどとは思いません。
ひとつには、当時はいまと比較にならないくらいに、為政者の責任が大きかったということがあります。為政者ひとりの判断で何万もの兵が死んでも当然というような時代でした。教育を受けた臣民が一人ひとり基本的人権をもっているような環境ではなく、選ばれたリーダーが働きアリを従えているのが常識であった中で、ローマ帝国が属国支配のために派遣したピラトが、イエスの処刑に決定的な判断を下したことについては、安易に他人の責任にしてよい背景はないと考えます。ルカの筆によるものは、ローマ高官への献辞を有する以上、ピラトを擁護するような書き方を見ることもあったり、ユダヤ人がけしかけたから、という勢いも福音書随所にあったりするとも言えますが、この裁判の最終的な責任がピラトにあることは否定できないかと思われます。
しかし、歴史的なことについては私も誤認があろうかと危惧します。あまりそこに拘泥せず、もっと私たち自身に引きつけて理解すると、実のところ私たちがこのように、ピラトのせいに、日常的にしている点を明らかにしておく必要があろうかと思います。私たちは政治家の悪口をきっと言います。失言した大臣なら、本人を批判していることになるかもしれませんが、何かしら政治の上での失敗や不都合を、すべて総理大臣ひとりのせいにして非難するようなことがないでしょうか。私たちが総理大臣の名を出して不満を垂れたり、総理大臣の名で政治を悪しく言ったりしているということは、ピラトの名を出しているということと、本質的にさして違いはないのではないか、ということです。
また、使徒信条で私たちは「ピラトのもとに」とは言いますが、ピラトが殺した、というような断言をとることはありません。イエスの十字架をピラトひとりが実行したと決めつけた言い方をしているようには思えません。むしろ、これは歴史上確かに起こった出来事なのだということを示すためであるようにも見えます。なんとか内閣のときになんとか大震災が起こった、という言い方がその内閣を貶めているのではないのと同様に、ピラトだけを悪人と称しているわけではないように聞くのは、同情的に過ぎるでしょうか。
ピラトの問題は、もう少し広げて考えると、ユダの問題にも行きつくことでしょう。つまり、ピラトの役割が憎まれるものとして神に備えられたのかどうかを考え始めると、ユダは神が滅ぼされるべく備えた者であったのか、などという議論が上がってくるというわけです。いや、ユダも救われたのだ、という声もあります。ただ、聖書はそのように記しているようには読めません。ピラトをかわいそうだと思う心理は、ユダを気の毒に思う心理とつながる可能性があります。しかし、それを神学的にであれ、心情的にであれ、私はなんらかの命題化を行って片付けようなどとは考えないことにしています。
先に挙げた想定がすべて私の勘違いであったとしても、それでも、そのようにピラトはどうか、ユダはどうか、と気にすることができない、というのが私の思いです。まるで週刊誌のゴシップを眺めるかのように、ピラトはどうだかね、と噂するような真似はしたくないし、できない、ということです。私自身がピラトであり、私自身の中のユダというところが問題なのであって、そのように後世のすべての人に、私の名が、キリストを処刑した極悪人であると繰り返し繰り返し口にされても仕方がないのだと考えているのです。ユダのように悪魔の子だと言われて当然の人間である私だということです。それなのに、そうでないように救わたのは、私が殺めたキリストの赦しがあったからてあるという、その恵みのゆえであるというだけの話だとしか思えないのです。
人それぞれの信仰や受け止め方がありますから、他人の信仰をとやかく批判するつもりはありませんが、どうしても、理解できない信仰の姿勢というものは、確かにあります。ピラトを気の毒に思う気持ちも、それに近いのですが、その気持ちを、全く理解できないわけではありません。しかし、全く理解できない信仰の態度というものは、ほかにあります。
それは、イエスがかわいそうだ、という言葉です。
自分に罪はないのに、あんなに酷い殺され方をして、かわいそうだ、という言葉を口にする方がいたのですが、私はこれだけは自分の中には全くありません。ゼロです。ああイエスさま、人々に殺されてかわいそうに、私はただ見ていただけで、私のせいではないのです、でもイエスさまは人々に殺されて、それで私の罪を赦してくださいました、感謝します、私はあなたに従います……そんなふうな思いは、百パーセントありません。ゼロです。
人が、誰かを憎んで殺したとします。そしてその殺した相手のことを、かわいそうだなどと思うでしょうか。いたとしたら相当に精神が分裂しています。そうした人は、自分の行為に責任をとる能力がないということでしょう。
イエスが十字架で殺された。その事件は、私と無関係に、テレビのワイドショーで見かけた事件ではないのです。少なくとも私は、そんなふうにイエス・キリストを見たことがありません。そんな出会い方をしてはいません。そうでないと、新約聖書は読むことができない、というのが、私の信仰です。私がイエスを殺したという大前提がなければ、聖書を読むということは、私にはできません。
イエスがかわいそうだ、と思う方とは、全然立つ位置が違います。もちろん、先に申しましたように、その人の信仰が間違っているとかおかしいとか言っているのではありません。私はイエスの死を傍観することができない、というただそれだけのことです。まして、その死を他人のせいになどすることはありえない、というだけのことです。
パウロのような人でも、そこまでの気持ちはもっていなかったかもしれません。ステファノの死には何か責任を感じていたかもしれませんが、イエスを自分が殺したという意識は、その手紙の文面を見る限り、感じられません。しかし、私のもつような捉え方から見ても、パウロの言っていることは理解できると思うし、ヤコブ派であってもヨハネ派であっても、新約聖書の言葉に反することのようには思えない、そう感じています。この感覚は異端的であると蔑まれるかもしれませんが、それでも否むことはできません。キリストの死は、断じて他人事ではないのです。
こんな私を、なおも信頼の糸で結びつけてくださっている、そのためにも復活を遂げ生きてはたらいていてくださる、その主は栄光の主であるとともに、私の眼前には、私が殺したままの姿を焼き付けている、なかなか言葉に尽くせはしませんが、その特異なあり方によって、私はいま生かされていると捉えています。それが、私であるのです。