マンガと文学、そして
2019年4月26日
私はAmazonのprime会員になっています。どうせいくらか支払うならばできるかぎりたくさんの恩恵を得ようと、kindleからタブレット、そしてアレクサまで、いろいろなツールが家に増えてきました。prime会員であれば、電子書籍を10冊まで、無料で無期限に借り出すことができるシステムがあって、さすがにどの電子書籍でもよいというわけではないのですが、上手に探すとなかなか掘り出し物というか、魅力のある本を無料でばくばく読むことができるというのは、利用の仕方によってはずいぶんお得な道だと思います。
とはいえ、そのことをより有効に利用するようになったのは案外最近のことで、しかも、マンガに出会うことに、いまちょっとハマっている次第です。物語の紹介や読者の評価がありますから、選ぶのにそう失敗がないような気がしますが、とにかくおっという気持ちで開いてみると、これが評判通りなかなかいいものが多くて、びっくりします。
最近良かったのが、まず『珈琲いかがでしょう』。移動珈琲店を営む青年がいて、出会う人がそれぞれ悩んでいるのですが、そこに描かれる人生模様に飄々と援助の手を差し伸べる形で関わっていきます。コーヒーを絡ませて気づく人生観と希望。実に爽やかで、どきりとさせられる、そして味な解決に落ち着くところが心地よい。
それから『ちひろさん』。元風俗嬢だがアラサーになり、町のお弁当屋さんに勤めるちひろさん。そのことを隠さず、むしろ源氏名を表に出すくらいに堂々とした生き方が頼もしい。さばさばした切り口で出会う人の固定観念を撃ち破り、それぞれが新たな道や光を見出すようになります。
実はどちらも、画としては私は好きなタイプではないのです。巧い、と思わせる絵でもありません。でも、描く物語がじんとくるのです。そこに惹かれます。いい話だなぁと感心します。
活字がないと息もできないほどの私でさえ、こうなのです。マンガに魅力を覚えます。また、そこから人生を学ぶような思いさえします。私のことですから、これは聖書のスピリットを根底において理解することもできるぞ、などとも考えてしまうわけですが、ともかくマンガを読む時間がいくらか増えました。もし私のように活字を必要とするタイプでなければ、マンガで十分いいじゃないか、という気もします。近年、文学作品をマンガ化するものも多くなっているし、小さいころに「まんが日本の歴史」などに触れた人も大人の大部分であるかもしれません。いまやビジネスものや資格取得、哲学に至るまでマンガで教えてくれるものが目白押しです。
いや、文学は文字でなければならない、という声が聞こえてきそうです。画は想像力を奪ってしまう、文字から読者がそれぞれに空想の翼をはためかせることにより、無限の世界が拡がっていくのだ。マンガなどで文学は成立しない、やはり文字だけの文学だ、などと。それは確かに正論だと思います。しかし、それがすべてなのかどうか、私にはどうもそうではない気がしてならないのです。マンガが伝える情報は、文字より少ないようでありながら、漢字という文字のように視覚的に情報をまとめて伝えるものとして、文字では表しきれないものすらふんだんに表現できるようなことがありはしないかと思うわけです。
文字だけだ、と固執してマンガを嫌う人もいるでしょう。それはそれでひとつの道です。しかし、マンガには文学性がないと断言するようになっていくと、果たしてそれでよいのか疑問です。そもそも、文字による芸術というものは、人類史上極めて新しいものであるはずです。いえ、新旧の問題ではなく、たとえば聖書にしても、識字率が低い時代が長く続いた中で、ステンドグラスは見て理解する聖書の役割を果たしていたのでしょうし、日本でも絵巻物の果たした役割というものがあることでしょう。古代の壁画や洞窟画などを考えても、絵により伝える文化というのは、人類の根底に近いところにあることになり、文字だけで文学を描くということのほうがマイナーなものであるような気がしてくるのです。
文字の文学こそが伝統だ、という思い込みがあるのです。いや、それを否定しているのではありません。文字がすべてであり正しいという思考枠を一度外してみたほうが賢明ではないか、ということです。先日そのことをお話ししました。自分の成長に関わり自分を形作ってきた習慣は、その人にとり世界のすべてとさえなりえます。福岡で生まれ育てば、ラーメンはとんこつでなきゃ、となるし、他の地方だと違う味しかありえないなどということになるのです。教会や礼拝のあり方や、聖書の理解にしても、自分の馴染んだものが一番いい、あるいはそれでないといけない、というところから、ひとはなかなか離れ脱することができません。価値観は、自分を取り巻く環境から植え付けられているに過ぎないかもしれないのに、自分の自由意志で客観的に判断した、などと自ら根拠づけることすらするのですし、そのように自分が作用していることの自覚もできません。
かといって、マンガにハマっていくことにより、だんだんマンガ独特の世界に浸るようになり、文字による文学のよいところを逆に否定するとなると、事は深刻です。ひとは流され、変わっていき、そして思わぬ坂を転がっていってしまうこともあります。これもまたそういう自分のことが自分では分からず、気づいたときには取り返しのつかないところにまで来ているという可能性もあるわけです。
自由だから正しいのでもないし、自分の信じる伝統だから正しいとするのも、それでよいかどうかは分からない。変わらないものも確かにあるでしょうし、変わってよいものや変わるべきものが多々あることでしょう。それを見極める目はニーバーの祈りにある如く、簡単ではないものですが、とくに自分こそ正しいという一点張りから自由になることが、まず第一歩となるのではないかとよく思います。
その自由の先には、愉しみがあることでしょう。というわけで、またちびちびと、マンガを愉しんでいきます。よき出会いを期待して。