カント生誕295年
2019年4月22日
だから何だという感じもしますが、近代的思考枠を基礎づけた歴史的思想家であることは間違いないでしょう。カントを信奉するとかしないとかいうことが問題なのではなく、私たちは恐らく気づかないほどに、カント的思考の溝に沿って水を流しているのではないか、という点で、牛耳られているのではないかという気がするのです。
もちろんデカルトの思想が、歴史を大きく曲げたというのは確かですが、デカルトは体系を築いたわけでなく、当人が基礎づけたとまでは言い難いように見えます。その点、カントは大学教授というスタイルを確立した中で、哲学を組織立て、まさにその著書の中でも示すように「基礎づけ」をなし、体系を構築したことで、思考の前提のようなところを作ったと見なされうるように思うわけです。
たとえば若者が、自分がこれが真理だと見出したときに、それをすべての原理のようにして一途に突っ走るということを、大人はよく指摘します。まだ経験が狭いから、ひとつ良いことが見えたら、それが全てのように思い込んでしまうのだ、などと。これが私たち人類の考え方全体にも言えるのであって、現代の私たちが当然のこと、事実そうではないかと暗黙のうちに前提しているようなことも、私たちの経験の中で真理だと思い込んでいるに過ぎず、全く別の見方や捉え方があることに気づいていない、というふうには思えないでしょうか。
20世紀の哲学は、そのような反省からか、西欧思考を超えた、別の考え方で近代の行き詰まりを打破しようとする動きが盛んでした。しかしそれを試みるのが同じ西洋人が中心であったために、果たして乗りこえられたのかどうかは、まだよく分かりません。野生の思考や身体を問うような多彩な捉え方が表立ち、近代的思考を問い直すことが大きな課題となりました。国際政治としても、これがまだ十分解決していないことは、イスラム諸国と西欧諸国とのうまくいかない状態に現れていますし、イデオロギーの対立の背後にも巣くっていると思われます。まだまだ西欧中心の国際組織の運営の中で、アジアやアフリカの考え方が十分考慮されているとは言えないようにも見えます。
日本のキリスト教世界も、西欧キリスト教が流れ入ってきた経緯があるため、それを当然の大前提として思い込んでいるふしがあります。さすがに戦国時代のいわゆるキリシタン文化が全般を支配しているようには思えず、むしろそれは、信じたらああなるという反面教師のように働いて日本人の宗教意識に潜在的な影響を及ぼしている面が強いようにも考えられます。明治期、プロテスタントが一気に日本に入ってきました。カトリック側でも、従来のキリシタンのあり方とは違う形で宣教がなされていったと思われますが、やはりプロテスタントに於いてはこの明治期の影響は甚大でした。讃美歌には19世紀の作品がいまなお中心を占める、つまり讃美歌といえばこれだよね、という歌はその当時に取り入れられたケースが多いのではないでしょうか。教会の建築もそうですし、礼拝の形式もそうなのでしょう。だからたとえば現在アメリカから日本に来てキリスト教に携わっている人が、日本の教会の礼拝に出ると、「懐かしい」感じがする、と漏らしているのを聞きました。自分が今の時代に経験してきた礼拝ではなく、話に聞く古の礼拝の場にいるようだということです。それはまさに、明治期あたりの西欧の礼拝が再現されているということなのではないでしょうか。
教会音楽といえばオルガンに決まっている、と感じる人が、年配の方に少なくありません。しかしオルガンそのものの歴史もそんなに古いわけではないので、結局自分がそれで育ってきたからということではないでしょうか。ギターさえ礼拝で許さない、という教会もまだあります。エレキギターなどかつては悪魔の道具とさえ罵られていましたが、まさかいまもそのように言われているところがある……のでしょうね。
だから何でも新しいものを取り入れなければならない、とは私は思いません。やはり落ち着くものを求め、その趣味の合う仲間が心地よくいられたらよいのではないでしょうか。その代わり、その意見に合わない人や教会を避難するようなことは慎みたいと考えるのですが如何でしょう。というのは、最近とみに、ネットの中で、自分の考える教会像や信念(それがあることは悪くないのです)に反する考えをもつグループや人を、口汚く罵る人が目立っているように見えるからです。もちろんそんな個人はかつてもいましたが、私の守備範囲の中で急に増えてきた印象があるということです。
ひとは心の中にあるものが口に、表に、出て来ます。まさに福音書のイエスが告げるとおりですが、そのままにのさばらせておくと、自分がただの毒麦に変わっていくことを避けられないかもしれません。自分で自分の判断はできないものですが、自分でできると思い立つところに、自分の中から神を追い出して自分が神になっていく構造もあるように思われます。その意味でも、カントのように自らの考え方そのものを調べ直すという観点そのものは、まだまだ必要なことではないかという気がします。カントの建てた体系そのものを信用する必要はないのですが、自らを検討するという姿勢自体は、(カントをメタ的に理解して)忘れてはいけない、と。
カントの名(Vorname; first name)はイマヌエルです。神われらと共にます、という意味の語であることは福音書に説明されています。私たちが神共にますという生き方と考え方をしたいと望むならば、ひとつ自己義認ではなく、自己批判から始めてみたいと願います。それでもなお、人の心理は自己欺瞞を深いところでなすものなのだ、という心理学もありますが、その深いところを神との関係の中でつねに洗い直すようなことを平生繰り返しつつ、外から教えられていくことに喜びを感じられるようにといつも思っています。