スリランカのために祈りつつも

2019年4月21日

教会の午後の礼拝の後、私たちはティータイムと共に、ある青年の送別会を開いていました。プライバシーに関わるので曖昧な言い方をしますが、スリランカの方と言っておきます。日本で次のステップに進むために、他地域にこれから行くことになったのです。
 
私がスマホのバイブに反応し開いてみたことで、スリランカの事件の速報を知りました。青年にその後このことを知らせると、スリランカに連絡をとっていました。その時点で、知った方が亡くなったということがすでに判明していました。思わず涙しました。
 
すでに幾人か逮捕されているという報道ですが、事件の背景については特に明らかにされておらず、そうした点についていま触れることはできません。また、悲しみや憤りなどの感情的なことについても、ここで示そうとはしないことにします。また、亡くなった方々への哀悼の気持ちはもちろん人間としてもちますが、申し訳なく心苦しい中、そして諸関係の方々には不愉快に聞こえるであろうことを覚悟の上で、自分たちのことを少しだけ考えさせてください。
 
それは、信仰生活をしている私たちは、実はいつもこのような危険の中にあるという意識をもっているのだろうか、ということです。
 
教会は誰でも入ることができるように開かれているはずです。普段でもそうですし、礼拝中もたぶんそうです。礼拝開始と共に鉄扉を閉めて閂をさすような教会があるでしょうか。つまり私たちはいつ背後から襲われてもおかしくない状態で教会に集まっているというわけです。
 
教会は平和なところです? そうでしょうか。かつてイエスの十字架刑直後、弟子たちは捕縛や敵の攻撃を恐れて戸を閉めてぶるぶる震えていました。パウロはそうした信者を捜し出して引っ立てていました。しかもそれを神に仕える正義だと確信してやっていました。ローマ当局による迫害の歴史が続き、見世物として獣の餌食にされたり、松明代わりに燃やされたりしたのは、キリスト教信徒でした。
 
その後キリスト教が権力と結びつくようになっても、党派的な争いのために血で血を洗う戦いに明け暮れ、互いに憎しみの中で、自分こそ正義だとして信仰を守り通し、時に万の桁の敵を虐殺し、あるいは異端分子をつくり上げてはなぶり殺しにしていました。礼拝中を遅うということは日常茶飯事だったのではないでしょうか。
 
現在でも、キリスト教会での礼拝が違法だという国はいくつもあります。表向き信仰の自由は掲げられていても、実質殺されるという国や地域はさらに多いかもしれません。キリスト教信仰を、命懸けで守り通している人が、いまも少なからずいるのは事実です。
 
日本は違うよ、と仰るかもしれません。確かに信仰をもつことで地域で外れものとされたり、煙たがられたりすることはあるかもしれませんが、基本的人権は守られているし、信仰の自由があるからね、などと安心している人もいるでしょう。確かに、それは嘘ではありません。
 
しかし、権利だ自由だという言葉が、どれほど私たちを護ることができるのでしょうか。そんなものを嘲笑う者によって、やまゆり園の人たちは殺されました。新聞社の阪神支局の記者は撃たれました。私がかつて教えた小学生も惨殺されました。
 
今回スリランカでは、明らかにキリスト教会が狙われています。このようなことは、他国でもしばしばあります。他の宗教勢力によるものなのかもしれませんが、逆にキリスト教側にいる者が他宗教を襲うテロも実際ありましたから、何もキリスト教が被害者であるなどというつもりはありませんが、とりあえずキリスト教会が狙われることは、ままあることだということは認識しておく必要があります。そして日本にも、キリスト教を憎む他宗教の人はいて差し支えないだろうし、事実いることでしょう。日本の教会が襲われないという保証はどこにもありません。
 
たとえば妻は小さな医院に勤めていますが、病院というところも、いわば誰でも自由に入ることのできる場所です。突如暴漢が来るという可能性があります。実際時々そのような事件が起こります。常にその可能性を踏まえて、身構えて仕事をしている、と妻は言います。患者をどう守るのか、を常々意識している、と。私も学習塾で同じことが言えると考えています。
 
教会もまた、その覚悟なのだ、と当教会の牧師は言いました。多くの人を礼拝に集めている以上、その教会が狙われて人々が犠牲になるようなことがあったら、そこに責任がある、と考えているのかもしれません。誰でも自由に礼拝に来てください、と呼びかけていますから、招かざる客もまた自由に来るかもしれないのです。どうぞ教会に来てください、と誘っておいて、初めて来た人が攻撃に巻き込まれたら、あるいは学校の課題レポートのために教会の礼拝に来ていた学生が襲われたら、いったいどのように申し開きをしたらよいのか、そんなことを考えているのではないでしょうか。私がもし牧師なら、それをいつも頭に置きます。
 
それでいいと思います。いえ、それでなければならないと思います。この意識を有しつつ、私たちは覚悟しながら、礼拝をささげてゆくのです。その時その時、いまここですべてが終わっても悔いがないというほどにまで、与えられた恵みを出し惜しみせず、語り、あるいは伝え、示していくことしか、私たちにはできないのです。
 
だから、語る人は常に真摯に語って戴きたい。その礼拝で牧師の語ったメッセージが、生きている間に聞く最後の神の出来事の言葉である人が、そこにいるかもしれません。良い説教をしろと言うのではないのです。手を抜くようなことをしてくださるな、と言っているのです。ドラッカーではありませんが、真摯に目の前のことにあたって戴きたい。それが私たち一人ひとりの、神にささげる礼拝となると信じて止まないのです。
 
イースターの(現地で)朝の事件でした。復活の信仰を、このイースターほどに、腸がちぎれそうになって叫びたくなったことはありません。その中で、自分のことばかり申し上げて、すみません。ご容赦ください。



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