完了

2019年4月7日

「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ5:34)
 
この「救った」のニュアンスは、原語には決まった情報を含んでいます。日本語だ けであると、どんな意味なのか幾通りか捉え方がありますが、元の言葉ははっきり とひとつの意味を伝えます。これは「完了形」といい、いま救われているという内容とともに、その救いはある過去に発し、ずっといまもそれが続いているということを伝えています。メッセージの中でこのことはよくさらりと言われますが、いちいち文法の解説をすることは稀ですから、文法的な点で納得いきづらいところがあるのではないかと案じ、老婆心ながら、文法にまつわる解説を加えてみようかと思いました。
 
新約聖書はギリシア語で書かれています。当時の文化的背景がそうさせたとも考えられますが、日本文化を英語で伝えた岡倉天心や内村鑑三、新渡戸稲造、鈴木大拙などの偉人を思い起こします。日本語で話すタレントが日本で有名になるように、言語はやはり認知度を高め、考えが伝わりやすいのも事実でしょう。キリスト教が当時考えられた「世界」へ拡大する条件は揃っていました。
 
私たちも、ヘブル語よりはギリシア語のほうが馴染みやすい面があります。習ってきた英語のひとつのルーツであり、英語を勉強していれば理解が進むからです。ギリシア文字も、見慣れたものが多く、習得は比較的容易です。文法も、いくつかの注意を気にすれば、理解は進むであろうと思われます。但し、可能ならばドイツ語のように「名詞の性」や「格変化」についての知識があるとなおさら、馴染みやすいことでしょう。
 
聖書は邦訳でももちろん読めますが、日本語だけだと、意味を取り違える可能性も否めません。「学校に行った」だけを聞いたとき、状況は様々に想定されます。病気で休んでいた子がいま家を出たときにもこう言うでしょうし、学校に着いた時点の表現かもしれないし、行ったことがある意味を伝えているかもしれないわけです。日本語では人物の地位関係は敬語表現で細かく表現されますが、数や時間的決定は曖昧なままにされる傾向があります。それが英訳を読むと、かなり明確になることがあるのを、英語の聖書を見て思った方もいることでしょう。
 
ではギリシア語はどうかというと、英語とはまた違う面があります。それどころか、ギリシア語と英語とをつなぐ梯ともいえるラテン語もまた、けっこう違うのです。今回、解釈のポイントとなった「完了」について少し学びたいと思います。
 
「完了」は「未完了」と対比されます。これらは動詞の「(様)相(アスペクト)」の区別とされ、過去・現在・未来という「時制」に加えて、その時間の理解の中で、その事柄が完成するかしないか、また一時的なのか繰り返されたり続いたりしているのか、といった区別を表します。(文法書によっては「相」を「態」の代わりに用いるものがありややこしいのですが、ここではとりあえず上のように呼ぶことにします。)
 
英語の現在完了を学ぶ中学二、三年のとき、苦労した覚えがあるかもしれません。日本語感覚ですっといかなかったからですが、日本語では「た」という助詞の多用な使用法を細かく分析することとなりました。ギリシア語の「完了」には、その中で経験の意味を読み込むことはできません。
 
理屈からすると「過去完了」もあるわけですが、新約聖書には殆ど見られません(2つある?)。ここでは「現在完了形」に絞って考えてみましょう。思い浮かべるのは、過去。基本的には、過去に始まったことが現在に続いている様子を表します。過去の決定がいまなお有効であるということです。
 
比較してみましょう。そのためには、まず「アオリスト」と呼ばれる様相を学ぶ必要があります。ドイツ語をご存じの方は、ドイツ語で過去を言うのには形式的には現在完了形を用い、ドイツ語の過去形は「現在と明らかに無関係に過去に身を置いた、いまとは遠い出来事」に限られ、学術的には多いかもしれないが日常的には頻度が少なくなるということを学んだかと思います(その代わり普通の過去はドイツ語では現在完了形を使います。これには数行語に触れるラテン語を経てきた際の理由があるように思われます)。アオリストは、このドイツ語の過去形の説明の「 」のニュアンスに近く、しかもいつとは述べなくとも過去の一回きりの(まとまった)出来事であることを伝える感覚があると言えるでしょう。アオリストはまた「不定過去」と称されることもありますが、このギリシア語表現がいまなお使われるわけは、その後ヨーロッパで共通語となったラテン語ではこの用法が完了形と合流してしまい消えたので、元の呼び方で呼ぶしかなかった事情に基づくと思われます。アオリストは、継続したり反復したりする行為の表現に使うことはできません。
 
次に、「未完了」(不完了・半過去)というものがあります。これは、後のラテン語に基づく用語であるというのですが、ギリシア語のあり方とは少し違うように思われます。基本的には「持続している過去」という捉え方になります。出来事は一回きりではなく、持続しているという見方です。あるいは、繰り返し起こっている場合もあります。それで習慣を示すこともできるでしょう。日本語では「よく〜していた・〜し続けた」のような感覚で捉えると理解しやすいように思われます。
 
そして「完了」です。その言葉自体の意味は「そばにある・手許にある」ですが、ここまでご紹介した「アオリスト」の出来事が過去に起こり、「未完了」のように継続されてついに現在に至り、現在どのようになっているか、を示すのが「完了」であると考えてみてはどうでしょう。だからこれは「現在」のことを述べています。時制から分類すると、過去を示す「アオリスト」や「未完了過去」「過去完了」とは区別されることになります。それで現代のギリシア人もしばしば管理用については、「完了している現在」という説明の仕方をするようです。確かに、そのほうが誤解がないかもしれません。
 
たとえば「知っている」という語は、私たちなら現在形の動詞だと考えるでしょうが、ギリシア語の考え方だと、かつて経験したことに基づいて初めて何かを知っていると口にすることができるわけですから、過去の出来事からのつながりが必ずあると考え、完了形で表現するということになります。
 
福音書のイエスの言葉が、この「完了」で私に向けられているとしたら、昔あった出来事という遠い感覚ではなくて、いまなお生き生きとはたらいている神のメッセージであると受け止めることができるかもしれませんね。現在完了形を中学生に教えるときによく私は、「コクるときには、I loved you.と言っちゃいけないよ。I have loved you.ならいいけど」と言います。前者はアオリストの感覚がつきまとい、かつて好きになったけれども今はそうでもないというふうに聞こえるのに対して、後者だと前からずっとそしていまももちろん好きなんだよという気持ちが伝わるんじゃないかな、などと。聖書のメッセージは、かつてはもちろん、今も、そしてこれからも、神が愛してくださっている、というようなものじゃないかなぁ。



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