選挙カーと恋愛
2019年4月4日
統一地方選挙で、街が賑やかです。いろいろ批判があることを分かっていながらも、拡声器による名前の連呼という方法は依然として続いています。たぶんその古い感覚は若い世代に響いていないと思うのですが、古い仕方に勝るものがどうしても考えられず、年配者が主導すると、変えられないのでしょう。
いつもなら、教会もそうですね、といきたいところですが、そこは私がいまとやかく言おうとするのはやめておきます。
騒音への批判が上がるとき、それに耳を傾けるかどうか、対応が問われます。そもそも批判や抗議が上がるということは、その背後に何十倍ものそうした思いが控えている、ということを信じようとしないタイプの人がいます。権力者はそういう性格でないと務まらないのかもしれません。ビジネスでは、クレーム客は貴重な存在だと受け止めるのが普通です。欠点を教えてくれるからです。怖いのが、何も言わずに二度と来ない客、買わなくなる客です。どう改善してよいかが分かりません。お客さまの声をお聞かせください、とメモ紙が置いてある店は、寛大なのではなくて、直すべきところを知りたい渇望の故でありましょう。
教会は、信徒が教会を批判してはいけない、という暗黙のルールがあるように見えます。批判というのは、非難とは違って、適切に事柄に即して扱えば改善の契機となるものなのですが、どうにも感情的に捉えることに熱心であるのか、あるいは、教会は仲良く一致していくべきだからという理念の故であるのか、そうなっています。言論における喧嘩の仕方がディベートなどで教育されずに、論理などなしに感情をぶつけるのが議論だという社会では、互いに不満を呑み込んで我慢することが、協同作業に必要だという思い込みがあるのかもしれません。
拡声器での連呼は、必要がない人にとっては不快ですが、実は私の環境では非常に迷惑をしています。英語などのリスニングテストができないからです。テスト時間がリスニングを含めた設定になっているので、選挙カーが来たからと言ってむやみに止めることも難しいのです。
まさか、入試の季節に選挙カーが試験会場の近くでがなりたてるということはないのでしょうが、どこで入試が行われているかを完全把握して配慮しているのではないと思われますし、どこからどの程度会場に聞こえるのか分かりませんから、これはいままであまり問題になった記憶がないのですが、少し調べてみると、実際に大学入試を妨害した例があることが分かりました。大学側が先に通知していた上でそうだというのですから、小さな会場や中学や高校の定期試験などでリスニングテストがあるとなると、ただ我慢しているということなのでしょうか。
選挙行為は、国政であれ地方政治であれ、一定の権利の下になされており、公的なものですから、ある程度の量以下であれば禁じられる謂われはないことになるのでしょう。しかし、夜勤明けで休んでいる人の家が道路沿いであったらもう睡眠を妨害されても仕方がないのか、夜泣きで疲れ果てた母子がようやく朝寝たら起こされてまた子が泣くといったことがないのかどうか、表に出ないので分かりません。言えることは、連呼するということは、迷惑なその人は大きな声で名前を繰り返しているのですから、そんな人には投票しないことに決める人がいるのではないかということです。以前も触れましたが、社用車で乱暴な運転をしていると、会社をマイナス方向に宣伝していることになるわけで、この連呼による騒音は、当事者にとってもよくない結果をもたらすかもしれず、またクレームなしで静かに投票結果に出ることで、票が伸びない原因に候補者は気づかないといったふうである可能性も出てくることになります。
自分は良かれと思って語ること、することが、まさか相手からすればよけいに嫌いになるふうである、などとは普通考えにくいものです。けれどもたとえば恋愛の場面において、幼い時にはそのように自分勝手に振る舞って相手が自分を好きになるような幻想を抱きますが、次第に、相手を理解することが恋愛の成就へつながることを知るのではないかという気がします。
もちろん恋愛は定義も公式もありません。一人ひとり異なる様々な要素やケースがあるでしょうが、時折、恋愛においてはどうだろうか、と考えてみることは、自分中心の論理を突き進むことから守られるのに役立つかもしれません。就職活動をする学生に好感をもたれる企業、つまりモテる企業は、ただカッコイイのではなくて、社員をよく理解しようと努める企業であるかもしれません。ついてこい、と男が粋がる風潮は、もはや過去のもの。自分が知る程度の古い常識こそ永遠の真理だと頑なに信じるところには、出来事が起こらない。ちょっと悲しい真実ではないか、と思います。